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映画日記 寺山修司監督作品『さらば箱舟』 無国籍人形劇みたいな映画

マルケスの「百年の孤独」にインスパイアされた映画


アップリンク吉祥寺で観る。1984年公開の映画だ。監督は寺山修司だ。前に観たような気がするが、はっきりと思い出せない。映画館だったのか、レンタルビデオだったのか、定かではないが、観たことは見た気がする。

映画の中身も、ほとんど何も覚えていなかった。最後、小川真由美が、「百年がどうたら〜!」と絶叫するところと、一同が再会して写真撮影するシーンだけは覚えていた。フェリーニの「ローマ」か「81/2」のどちらかのラストにそっくりだなと思ったことを思い出した。

前回は感じなかったのかもしれないが、今回はとにかくセリフが聞き取れないと感じた。東北弁のような博多弁のような、どこの地方のなまりなのかわからないが、なまって語られるセリフのほとんどが聞き取れないのだ。それに前回見た時もずいぶんと退屈に感じたことを思い出した。今回も、退屈だった。

やっぱり、私は、寺山的な前衛は苦手なのだ。

今回、改めてこの映画を観て、マルケスの『百年の孤独』を原作だとするのは、無理があると思った。マルケスの小説にインスパイアされて作った映画、というのが妥当だと思う。

ラテンアメリカ文学の翻訳ブームに乗った映画化?


この映画に関して、ネットでちょっと調べて、当時のことを思い出している。この映画は、ガブリエル・ガルシア・マルケスの小説『百年の孤独』の映画化というふれこみだった。寺山修司の映画作品としては、遺作になる。

映画が完成したのが1982年で、寺山が亡くなったのか1983年で、この映画が公開されたのが1984年だ。2年間、公開されず、その間に寺山が亡くなってしまった。

公開できなかった理由は、完成した映画が、原作とあまりに乖離した内容だったため、マルケス側からクレームがついたとか、1982年にマルケスがノーベル文学賞を獲ったために原作権が高騰して、対応できなくなったとか、いろいろ言われていたが、詳細は、今、調べてもよくわからなかった。

原作小説は、マコンドというコロンビアの架空の村を舞台にしたブエンティーア一族の100年にわたるハナシだ。近代的な内面描写を排した独特の語り口の小説だった。1967年に出版され、日本では1972年に新潮社から翻訳出版されている。1970年代の半ばになると、安倍公房とか寺山修司、大江健三郎などが盛んに『百年の孤独』が素晴らしいと書いたり言ったりしていた。

それに接した高校生の私も、『百年の孤独』を買って読み、かぶれたのだった。にわかにラテンアメリカ文学に興味が出て、当時、ラテンアメリカ作家が数人収録されていた集英社の世界の文学全38巻を買い求めたり、国書刊行会のラテンアメリカ文学叢書を集めたりしたのだった。

どこにも根っこのない浮遊した無国籍人形劇


さて、映画に戻ろう。この映画は、原作のマコンドを日本のどこかに置き換えたのかといえば、そうなのだろうけど、いまいち、違うんじゃないかという印象を持った。架空の村マコンドよりもさらに架空な感じがするのだ。

その村は、日本といえば日本のように見えるし、しかし、どこか南の島の、あんまり土着的でない村を舞台にしているように見える。そこは、まるで日本っぽくなく、妙に無国籍っぽくて、この世のどこにもない村のように見えるのだ。

沖縄でロケしたというが、異国情緒たっぷりのアジアのどこかの国の村だ。そこは家畜もいて穀物も出てくるから農村なのだけど、畑の風景は出てこないし、誰も農作物を育てている様子はない。農村らしいのだけど、お百姓さん、農民が出てこない、というか、農村のようで農村では全くないような、かなりちぐはぐな印象を受けるのだ。

本家とか分家とか長男がどうしたとか次男がどうしたとか、古い因習が強いところのようにセリフでは語られているけれど、それはセリフの上でのことで、やたらと虚構性が高い印象を受けるのだ。

そんなだから、因習とか習わしとか掟とか言われても、我々の日本のハナシではなく、その村の固有の特殊事情のように見えるのだった。

しつこいけれど、映画の舞台となっている村は、根っこのない、いかにも作り物めいた空間なのだ。土地に根を張った共同体という感じが全くしない。だから、土着とはまるで相いれない抽象的な、それこそ書割的なセットで出来た、地面から浮き上がった舞台空間そのままの印象だ。

演劇ならそれでいいのだろうけれど、映画でこれはちょっと困るなあ、と思った。といっても私は、演劇はあまり観たことがないし、寺山修司の天井桟敷も一度も見たことがないのだけれど。

結局、映画を観たというよりも、無国籍な人形劇を見せられた、みたいな感覚になった。昔よく、NHKやNHKの教育テレビでやっていた人形劇だ。登場する人たちは、みんな人形劇の人形のようなのだ。変化するような内面を持っているのは、小川真由美が演じるスエくらいで、あとはみんな人形みたいなのだ。それも、セリフの量が少なくなっていくつれて、人形度が増すのだ。

あらすじをまとめると、こんなハナシ


とりあえず、この映画のハナシをまとめてみる。

村で、分家の男が従姉妹と所帯を持った。しかし村には、血縁がまぐわると、奇形児が生まれるという言い伝えがあり、そのため妻となる女は、貞操帯を装着されてしまう。二人は村外れの家で暮らすが、性交は出来ない。そのため、男は村の中でふにゃまらの男としてバカにされる。

ある時、バカにされて怒った男は、本家の跡取りを刺殺してしまう。殺された跡取りは亡霊となって男の前に現れる。男は、次第にコトバを忘れるようになり、半紙にものの名前を書いて貼り付けるようになる。

その後、男が新たに時計を入手したことで、村の集団に襲われ、殺されてしまう。時計は、村では本家に一台あればよく、複数あると時間が複数あることになり、村の秩序が保たれない、という理由らしい。

男が死ぬと、妻の貞操帯が解ける。その頃、村民は発展著しい隣町に移住するようになっていて、村からは人がどんどんいなくなっていく。妻もだんだん気が狂っていき、最後は何やら能書きめいたものをカメラ目線で絶叫して、終わりになる。

それから百年経って?以前の登場人物たち(その子孫か?)が、丘の上に集まってきて、街を背景に記念撮影をすることになる。そのシーンで、それぞれが、隣町でどんな職業について、どんな生活をしているのかが、さらりと明らかにされる。

と、こんなハナシだ。

40年後の現在ではずいぶん違って見えた

柱時計に関するエピソードも、冥土に繋がっている巨大な穴が出てきたりするのも、やたらとまぐわう男女のシーンも、唐突にインサートされるイメージショットも、これまたやたらと登場する見世物小屋的な人達や物々も、白塗りの男女も、原住民の祭りのような集団の踊りも、合田佐和子の絵画も、寺山のファンというわけでもない私ですら、みんな見覚えがあるものばかりだった。

この映画が、寺山修司が執着するアイテムのてんこ盛りで、集大成というよりも、映画自体が、寺山のコレクションが詰まった、強烈なオタクの部屋のように感じた。でもその全てがこけおどしのようで、私はいまいち面白がれなかった。

外国人が見たら、エキゾチックに感じるのかもしれないが、2020年代の日本人の私が見ると、あまり刺激的ではないし、地味な印象を受けるのだ。衣装は派手なのだが、無国籍で、その無国籍さが、子供の頃に見たNHKの人形劇みたいで、どこか地味に感じるのだ。

新人の高橋ひとみと三上博史は、まだ演技以前のただの姉ちゃん、兄ちゃんだった。原田芳雄と山崎務と石橋蓮司は、まるでいつもと変わらぬ演技をしているし、高橋洋子もテレビでお馴染みの演技をしていた。40年経った現在から見ても、彼等の演技は、そのように見えた。

だから、テレビと違ったのは、小川真由美だけだった。40年前の小川真由美は、すでに40代前半とはいえ、誰よりも翔んでるかっこいい女性だった。その小川が、この映画では、本当に、知恵の足らない馬鹿に見えた。腰についた貞操帯が痒いのか、腰を掻きながら歩いている姿には、翔んでる女のかけらもなく、女優って本当にすごいなと思わされた。ただ、その熱演が報われているかというと、この映画は、あまりデキがよくない気がしたのだった。

そして、映画が完成してから40年経った現在、この映画を観ると、とても壊れやすそうにみえた。こんな比較が成り立つかわからないが、例えばエミール・クストリッツァの作品と比べると、耐震強度が足りない、というか、どこか脆い印象を受けるのだ。

一見した印象も、セットがペラペラな感じがして、強度不足そのまんまなのだ。ハナシ自体も、寺山好みのエピソードの寄せ集め感が強く、一貫した何かというより、趣味的な美意識が優先されていて、それに共感できるか出来ないかで、評価が割れる作品だと思う。

美意識なんか超えて、迫ってくる何かが足りないように感じるのだ。だから弱いのだ。しかも提示される美意識は、一々意味ありげで、うるさいのだ。意味など問わず、映像美でバーンと見せることがないから、映画的でもない。

それに、何で、この映画の中の女の人達は、男にフツーに犯されていくのだろうか? クストリッツァの映画なら、たとえ犯されたとしても、女は負けていないではないか、と思った。その違いは何だろうか? 時代的なものだろうか、作り手の意識の問題だろうか?

なんだか最後までうまく説明できないのだが、この映画、私にはオタクの部屋のように見えたくらいだから、とても個人的な作品に感じた。個人的というか、狭いと言ったほうが合ってるだろうか。社会的な広がりがないのだ。越えていくような、広がっていくような、そういうエネルギーを感じないのだ。それもまた、強度不足の一つのように思えるのだ。

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