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読書日記『一八〇秒の熱量』愚直が常識を覆す

■山本草介・著『一八〇秒の熱量』双葉文庫

著者は、1976年生まれで、佐藤真門下のドキュメンタリー映画作家だ。映画だけでは食えないので、「プロフェッショナル 仕事の流儀」「情熱大陸」「ザ・ノンフィクション」といったテレビ・ドキュメンタリーにも数々関わっているらしい。

その過程で、NHKの『関ジャニ∞応援ドキュメント 明日はどっちだ!』(2013~15放送)という番組も請け負った。名もないミドル級のボクサーの企画だ。それが好評を得て、十回を越えるシリーズになった。

本書はその時のボクサーのチャレンジを書籍化したノンフィクションだ。書かれてある内容は2013年の出来事で、単行本が出たのが2020年で、文庫が出たのが2022年の暮れだ。著者初の書籍だ。

NHKの番組も、この選手のことも、著者のことも、私はまるで知らなかった。書店でこの文庫を手に取って中を見て、なんで2013年のことを今頃?といぶかったのだった。


日本ボクシングコミッションには、現在は廃止されているが、「37歳でチャンピオン以外はライセンスを失う」という規定があった。

それに従うと、2013年当時、36歳だったミドル級のボクサーの米澤重隆は、あと9カ月で自動的にプロの資格を失うことになる。それを回避するためには、チャンピオンになるしか道はなかった。

チャンピオンというのは、最低で日本チャンピオンだ。その上には、東洋チャンピオンがあり、4大団体の世界チャンピオンがある。

米澤の37歳の誕生日まで、残すところ9か月しかなかった。そこから無名のボクサーと彼の所属するジムの前代未聞の挑戦が始まった。

この時点での彼はB級ライセンスを所持する6回戦ボーイにすぎなかった。C級が4回戦ボーイで、A級が8回戦以上、10回戦、12回戦となる。

米澤が日本チャンピオンになるには、A級ライセンスを取得して、その上で日本チャンピオンと10回戦を戦って勝たなくてはならないのだ。それも9か月の間にだ。

普通に考えたら、実現不可能なことだった。米澤がいくら30才を過ぎてからプロボクサーになったからといって、日本チャンピオンに挑戦するような選手なら、とっくにそのレベルの試合をしているはずだからだ。

日本でボクシングというと、昨今の井上尚弥や井岡一翔の活躍を見るように、軽量級のチャンピオンが多い。そのせいか、つい、軽量級に目が行きがちだが、世界では、一番選手層が厚く、タレントがひしめいているのがミドル級なのだそうだ。

逆に、日本では、ミドル級の選手が少ない。ミドル級で世界チャンピオンになった日本人は、米澤が現役当時では、1995年の竹原慎二(防衛1回)1人しかいなかった。その後、2017年に、オリンピック金メダリストの村田諒太(防衛通算2回)がなっているが、選手層も薄く、目立った選手もいない。

だからでもないが、このチャレンジがいくら無謀でも、日本人のミドル級の選手は少ないのだから、日本チャンピオンくらいにはなれるのではないと、いい加減な私は思った。

読む前に、こんな風に一冊の本にもなっていることだし、きっと、結構なところまで行くのはないかと、勝手に妄想したのだ。


米澤の挑戦の結果を書くと、最終的にミドル級の世界ランカー12位とオーストラリアで対戦するまでになる。この展開は、私の妄想をはるかに越えていた。

6回戦ボーイにすぎなかった選手が、8か月後に、世界ランカーと闘うのだ。普通に考えたらあり得ない、とんでもない展開だ。

両者の間には、コーチや会長までが「競技が違う」というくらい、レベルの差があったのだ。


この試合が実現するまでには、情けないドラマ、笑うしかないドラマ、本当に現実のことなのかと驚きあきれるような考えられないドラマ、そして感動的なドラマまで、様々なドラマがあった。

とにかく愚直で地味なボクサーと、イレギュラーなマッチメイクを実現させていくユニークな会長と、最後まで半信半疑な著者が語る、マンガのような手に汗握る挑戦だ。


本書を読み終わってから、米澤の試合をYouTubeで探した。一つしか見つからなかった。それも、NHKのドキュメンタリーが始まる以前の試合だ。ここでの米澤は、素人目にも下手糞で、限界の見える試合をしている……。

この動画を見たら、なおさらその後に起こった現実の展開が、信じられなくなった。百聞は一見に如かず、興味を持った方は、ぜひ『一八〇秒の熱量』を読んでいただきたい。きっと驚くと思う。

私は本書を読んで、いい年こいて自分はバカだけど、バカでいいやと思った。そんな開き直りのような、勇気のような、変なものをもらった気がする。



PS. 書籍化の企画が、ドキュメンタリー放送後、何年か経ってからのことだったので、2013年のことが、今頃、文庫になっていたのだ。ところで、昔からかもしれないが、最近、映像ドキュメンタリー系の人が書くノンフィクションが多くなった気がする。作り手の側に、映像だけでは表現しきれないという気持ちがあるのか、あるいは、映像作品が成立しづらくなっているのか…、きっと両方なのだろう。

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