読書感想文 最近の新書5冊
このところ、すぐに読み終えることが出来る、楽な本しか読んでいない。だからあんまり頭も使っていない。新書5冊の感想文だ。
■平山瑞穂・著 『エンタメ小説家の失敗学~「売れなければ終わり」の修羅の道~ 』光文社新書
著者には悪いが、何が書いてあるのか、わからなかった。29冊も著書があるらしいから、文章は書ける人だと思うのだが、一行の文の中に、肯定と否定が入り混じっていて、結論が何なのか、意味がとりづらい文章ばかりだ。
ところどころに、文語的な言い回しが入っていたり、文体のトーンも安定していない。意味の取づらさは、そこからも来ていると思う。単純に悪文だと思う。
本人は、冷静に文章を書いているように装っているけれど、冷静さよりも、恨みつらみが勝っていて、あんまり冷静な判断ができていない印象を受ける。そして、ことごとくが言い訳がましい。
自分の書く文章が、クドい悪文だということを、著者本人が自覚してないところが、すべての元凶だと思う。
章ごとに、過去に書いた自作をかいつまんで紹介していているのだが、それが見事につまらない。なんでそんな不自然な設定にするのか、理解に苦しむものばかりで、まるでわくわくしない。
題名のセンスのなさにも驚かされる。単純に、ストリーテラーの資質がないように感じる。だから、この著者はエンタメ小説は向いていないと思った。
きっとこういう人は、私小説のようなジャンルで、ネチネチ、ウネウネと文章を書き連ねていったほうが、絶対に面白いものが書けると思う。
■北中正和・著『ボブ・ディラン』新潮新書
ボブ・ディランのコンパクトにまとまった入門書、ということになるのだろう。
私はボブ・ディランは、ちゃんと聴いていないから、文章を読んでふーん、と思っても、ほぼ実感は出来ない。文章を読んで理解しても、曲が頭の中で鳴らないから、どうしようもないのだ。
だから、YouTubeでその曲に当たってみて、聴きながら、読んでみる。これが、結構、面倒くさい。文章を読む速度の方が早いので、曲を聴き終わるまでまどろっこしいのだ。
またその曲が、初めて聴く曲だったり、あまり聴いたことのない曲だったりすると、耳に馴染むまで何度か聴かないといけない。ある程度曲に馴染まないと、この本の文章も、納得できないというか、入ってこないのだ。それはそれで相当に面倒だ。
加えて、北中正和の文章は、クセがなくて、読みやすい分、なんのひっかりもない。実は、私には苦手なタイプの文章なのだ。出来れば他の人に書いて欲しかった。
だったらなんで買ったんだというハナシになるが、買ってしまったし、頑張って最後まで読んだ。
読んでわかったことは、ボブ・ディランは、巨大だということだ。こんな薄い新書一冊では、足りないのだ。
また、アメリカのルーツ・ミュージックや、アパラチア山脈あたりで発祥したカントリーや伝承音楽・歌についての知識があると、より深く楽しめるのだなということもわかった。
そもそも歌は、著作権といったものが誕生する前は、共有財産だし、自由に使っていい材料でもあったのだ、というくだりがあって、ふーん、そうだったのか、と思った。
しかし、そのあたりのアメリカの古い音楽は、YouTubeなどで聴いてみても、古すぎてピンとこないのだ。
東理夫という人の書いた『アメリカは歌う』という実に分厚い本があって、そのあたりのことを詳しく書いている。
オリジナルはそれで、どこそこで歌われていて、それがこのように変わったとか、誰それが、この曲のこの部分と別な曲のこの部分を使って、こんな感じに録音をして、恐らくそれを聴いて、今度はこんなふうにカヴァーされた、なんてことを、詳細に検討している。
私も、いちいちYouTubeで曲を確認しながら、『アメリカは歌う』を読んだが、途中で飽きてやめてしまったことがある。
ということで、ボブ・ディランの音楽は、私にとってはそういう対象になっているのだ。そういう、というのは、調べて確認する、勉強の対象、みたいなものだ。そう書いてみて、我ながら、本当かな?と思う。
■泉谷しげる・著『キャラは自分で作る どんな時代になっても生きるチカラを』幻冬舎新書
何でこんな本を出したのだろうか? 泉谷が出す必要なんか、まったくない本だ。
薄い、ペラペラの新書だ。文章量もないし、情報量もないし、新情報もない。泉谷しげるが語り下ろしたような体裁の本だ。人生とか生き方とかを、自分の芸歴に沿って、泉谷風に、テキトーに語っている。
大物芸能人との交流とか、エピソードとか、死人に口なしレベルのテキトーさで語っている。泉谷は、ホリプロの所属だったのか。フーン。時流に合わせて、SDGsがどうたらこうたらとも語っている。
この本は、ジャンルで言ったらビジネス本とか自己啓発本になるのだろうか。もしかしたら健康本でもいけるかもしれない。
どう読んでも、売れる感じはしないし、誰が得する本なのだろうか? どうせなら、もう少しちゃんとした本が読みたい。泉谷しげるにはもっと敬意を払って欲しいと思う。
■近田春夫・著『グループ・サウンズ』文春新書
リクツ抜きでリクツっぽい人、近田春夫の本だ。今回は、グループ・サウンズについて語っている。
グループ・サウンドは、1965年から1969年くらいまでにあった、エレキ・バンドのブームをさす。私はかろうじて、テンプターズと、タイガースとスパイダースとブルー・コメッツの記憶がある。この4バンドしか記憶にはない。あえて加えると、その後に誕生したPYGも覚えている。
GSの最初は、洋楽のカバーと自作自演が基本だったが、途中から歌謡曲の作詞家作曲家による曲を演奏するようになり、音楽性よりも、ルックス重視のアイドル化していった。
この本では、GSの代表的な10バンドを取り上げて、GSの全体像に迫っている。このところの近田の本と同じで、若い(といっても40歳くらいか)が、やたらと詳しいライターに向かって語り、それを文章に起こして、新書本にしている。
グループ・サウンズは、ビートルズの影響はあまりなかったとか、ジャズ・ドラムの影響下になかった最初のバンドが大口広司がいたテンプターズだったとか、グループ・サウンズを発生から観てきた同時代体験者(近田)ならではの指摘があって、面白かった。
相方の若いライターは、当然、あとおいだから、知識は豊富だが、その知識に実感が伴っていない。それに、あとおいには、誇張と伝説化が伴うので、この手の受容体験は、やっぱり同時代を体験した人でないと、別物になってしまう。
これは、どのジャンルにも言えることだが、その差に意識的かそうでないかで、まともな本か、そうでない本かに分かれてしまう。
この本には、最後に、二つの対談が載っている。一つは、元ザ・タイガースの瞳みのる、元ザ・ゴールデン・カップスのエディ藩と近田の鼎談。もう一つは、GSのヒット曲をいくつも作った作曲家の鈴木邦彦への、どちらかというとインタビューのような対談だ。
近田春夫が選んだGSの10曲もあって、それがギターが鳴っている曲が多くて、そういうのが好きらしい、とわかった。本としては可もなく不可もないと思った。
近田春夫は1951年の生まれで、現在71歳だが、収録されている顔写真を見ると、恐ろしく老人に見えて、ちょっと驚いた。
近田春夫に大腸癌が発覚したのは2008年だ。ステージⅣというハナシだったが、手術は成功、その後、再発もあったが、今のところ完治したことになっている。闘病もあって、老けるのが早いのだろうか、なんて失礼なことを思った。
■片岡大右・著 『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか 現代の災い「インフォデミック」を考える』集英社新書
去年の東京オリンピックの開会式の曲を担当すると発表された直後に起こった、小山田バッシングを考察した本だ。このバッシングによって小山田側は多大な被害を被った。
単に、ネタの裏をとらないで報道したために、騒動が巨大化し、小山田圭吾が一方的に社会の敵として糾弾されてしまう事態になったわけだけれど、明らかな冤罪にも関わらず、毎日新聞をはじめとする新聞、テレビ等、マスコミは、未だに訂正も謝罪もおこなっていない。
バッシングの原因になった記事を載せた雑誌も、担当編集者もライター等も、世間に対して謝罪めいた文章を、主にホームページに掲載しただけで、訂正も検証もしていないし、小山田に対しては謝罪もしていない。なんでだろうか、誰も責任をとっていないし、誰も誠意を見せていない。
この本でも、責任追及などはやっていない。人物取材もしていない。そういう性格の本ではないのだ。ほぼ文学評論と同じ手法で活字になったものや、ネット上の文章を対象に、論考をしている。著者はフランス文学者だそうだ。
どういう経緯で、どのような条件がそろって、バッシングが拡大したのかを、丁寧に検証していて、それなりに面白いが、私はかなり物足りない印象を持った。
バッシングは、ジャーナリズムがまともに機能していれば起こらなかったはずだから、小山田圭吾の騒動は、ジャーナリズムの問題だと思う。文学の問題ではないと思う。
が、ジャーナリズムの側から、この件に積極的にかかわる人は、ほとんど出ていない。その結果、世間的には、小山田圭吾のイメージは、まったく復権していないと思う。ケリをつけなければならないのは、ジャーナリズムの人たちだ。このまま素通りするのだろうか。
著者によると、このバッシングで生じた小山田圭吾に対する誤った認識は、ファンや心ある人には、広く知られており、その意味では回復されており、最近は音楽活動も再開しているらしい。それはそれで当たり前のことだと思うが、やっぱり物足りない。
もともと文学批評はそういうものなのだろうけど、人物取材をしていないこの本は、まるで中川右介の本みたいだ。そういえば、名前も似ている。