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性の多様性や障害者との共生社会~実現は可能なのか~

みんなが、誰もが、生きやすいという共生社会。
何者をも排除しない多様性を認める社会。
を、みんなで作って生きましょう!って言われてますね。
てはじめに、障害者への差別行為がダメ!ってなって、現在、性の多様性も認めよう!が大きく動いていたりで。

多様性に賛成派だったんですけれど、突き詰めると、論理的に排除していいマイノリティって無いってことになって。
そこに、小児性愛も入れてね!って言う感じのが出たり叩かれたりで、まあ、とにかくよーく考えてみようって、思ってですね。


論理的に考える共生社会の性の多様性

論理的に考えれば、LGBTQはもちろん、PZNも認めるのが当然になる。
L(レズビアン)、G(ゲイ)、B(バイセクシャル)、T(トランス)、Q(クエッション)にに続いて、P(ペドフィリア)、Z(ズーフィリア)、N(ネクロフィリア)で、LGBTQとPZNなんですけど。

ひとの考え方次第で、そして個人個人で、認めても構わないものと、容認できるはずもないもの、があると思うんです。
現時点、フィリア系は病的な心理とされていますから、排除するのが比較的簡単になっています。病気だから、治療しろ!に賛同しやすいかと。

そんな感じに、LGBTQはいいけど、PZNは根本が違って、同意のないのを前提にした欲求で、つまりは加害欲、支配欲でしかなく、愛とか親密にとかでない!と大多数が反対派です。
わたしも反対したいです。同意がない前提の相手で性的欲求を満たしたいのは、人間として許せない!って思うから。
つまり、自分の感情の中で、どうしても許せないんです。

でも、人間には感情があり、認めがたいことがある。ペドフィリアやズーフィリア、ネクロフィリア。倫理的な問題を孕んだマイノリティだ。
論理的に考えさえすれば、排除の理由こそがない。LGBTQは実害がないことで認めたのだ。そのひとたちの苦悩を認めた。

でも、感情によって認められない事柄がある。嫌悪に耐えられないもの。人間は論理だけで出来ていないということなのだろう。
論理的思考でもってLGBTQやPZNは同じ異常な性的欲求なのだし、LGBTQを認めるのにPZNを排除することはおかしな理論になる。

でも、感情が言う。ひとの理性はどこまで信用に足るものなのか? ペドフィリアが実際にリアルで他害行為に及ばない意思を、どうやって信用すればいいのか?
ペドフィリアが実害を出さずに、チャイルド・マレスターにはならないでいることが可能なのか?

正直、わたしは信頼できない。小児性愛すなわち加害欲だ。加害欲のある人間に加害されたことが事実としてわたしの過去にあるから、加害欲そのものが怖い。

論理的意見と感情論

感情に論理は通じない、まったくの別物だから。
論理で多様性を語るひとは、論理的に考えて、大多数の感情を無視しての多様性内にPZNを含めるのは困難だろうと、考えるのではないだろうか?
でも、論理的に感情を納得させることはできないのだろうか?
いい感じに論理的な段取りで感情をも納得できる考え方ってないのだろうか?

とは考えたけど、どうしても嫌悪しかないものの発見に至った、になりました。

たとえば、知らない人が自分を見て性的妄想をしていることには、吐き気すら催すほどの不快感しかないので、嫌だ!って大声で言いたいし、妄想でなんだかんだされるのも、実際の自分でなくても、そのひとの妄想ないでどうにでもされるのが、嫌で嫌でたまらない。許せない。

けれど、きっといままでにもそういうひとはたくさんいたのだろう。
こっそりこっそり、ひっそり、楽しんでいたのかもしれない。その妄想に耽っている最中のその他人と同じ電車内にいたこともきっとある、と考えるべきだと思う。同じ空間にいなければ耐えられるかって、そういう問題じゃない。妄想内でも二度とそんな目に遭いたくない。

こっそり、こっそり、内緒でやっているだけで、気づきもしないくらいこっそろなら、少しマシ。

けれど、そうしていることを知ってしまったら、耐えられない。知らなければ、しているとしても、なんとか無いことにできる。

だから、わざわざ言わないでほしいと言ったらだめだろうか?

内心の自由が欲しい、と妄想に耽る許可をもらって、妄想してもあなたの身体に実害が出ないようにしますからねって、説明されたことにどう納得をしてたらいいのか、わからないとかでなく、無理!

妄想なら構いません、どうぞお好きなようにって、言うべきなのか?
内心の自由を侵害しないために、気持ち悪いことを考えないでください、と言ってはいけないのか? 考えるのは自由だから仕方ないって、イヤイヤイヤイヤ!って内心で全力で叫ぶことだけしかないとか、それは実際の被害と同じなんだが……。

女は感情でものを話す。って、よく男性が言う。
もしや、こういう部分からくるのかもしれない、と思った。

女性にとっては、知らない相手にも、知っている相手にも、自分で勝手な性的妄想をされることが不快でたまらない。
その中の自分がどんな扱いをされても、妄想する人物の思う通りなんて、すごくすごく嫌でたまらない。
自分主演のAVとかハメ撮りを個人の楽しみにって脳内上映されるの、嫌すぎるのだけれど。

男性はどうなのだろう?
男性は知らない女性に性的な妄想をされることに抵抗はないのだろうか? 女性でなくて、知らないゲイやバイに自分とのイチャラブの肛門姦で、自分があられもなく喘ぐ姿を妄想されても、心底嫌いな相手に凌辱的に犯される妄想をされても、気にならないのだろうか?

気にならんよ?
となると、この話で共感を得ようなんて、無理だ。
論理的に、相手の妄想の中の自分は実際の自分ではないから、実害はない。実際にその行為をされるわけじゃない。

付け加えるなら、娘を持つ父親にとって、娘にどこの馬の骨とも知らん男に性的な妄想に使われることは、何とも思わない、気にすることもないのか?
もしくは、自分の恋人を性的妄想に使われても嫌な気分になることもないのか?

これに、全然気にならないと言われたら、この話に共感を得る方法はない。
感情でものを言う女の戯言にされるのだろう。
ただ、当人にとって耐えがたい事柄を、それくらいのこと、と自分の価値観でしかでしか図れないことや、相手にその価値観を押し付けることは、これから先の人生で、損をすることになると思う。

論理的にはLGBTQにPZNを加えることに違和感を覚える方が間違いで、論理としてはそれらを受け入れて当然と主張できるのが当然だから当然という。論理でなら確かにそうでしかないのは、理解できる。

だって、同性愛ももとは異常心理だった。障害や病気だった。
病的じゃないって、なんやかんやでマイノリティではあるが異常ではないの立場を勝ち取った。

けれど、PZNも生殖に、子孫繁栄に、まったく関係のない相手に性的な興奮をするので、根本として、子孫を残し種を反映する生き物だとしては、おかしい反応であるのは同じであるから。

でも、LGBTQは相手が同意をすることが前提の好きで、Pのようにある時期だけ、しかもそもそも生殖に向かない年齢を対象に性的な興奮を覚えるとかではないことは、現在排除の理由の主なところ。

しかしながら、感情論でしかない男性の意見もある。
養育費は、大嫌いな元妻の子供に払ってたまるか!俺の人生の邪魔だ!
事実として、あなたは妻の子宮に精子を送り込みました。その子供はあなたの子供でもある事実しかない。あなたの子供には親の人生に関わる(邪魔する)権利しかないと思います。
親がいて、子供はいる。親がいなきゃ、子供はいない。卵子と精子の出どころがあったから、存在してしまった。
子供は人生をはじめることすら、親のせいなのに。

性的妄想に関する考え方の違いの理由

性的な事柄に対する男女での考え方の違いは、やはり妊娠する身体か否かにあるだろう。

女性はセックスすることに妊娠の可能性が付きまとう。
完全な避妊はないのだ。

けれど、たとえ妊娠をしても男性は言い逃れが出来るし、中絶しなよ、と言うのも簡単だ。
中絶のリスクは女性だけが負う。子供を産めなくなるかもしれないことも、中絶の手術を実際に受けるのも、女性でしかない。
男性はせいぜい費用を負担するくらいしか負うことはない。
もし、これを男性にとってのリスク呼ばわりされたら、手術受ける側はたまったもんじゃない。

生物の進化の過程で、自分の子孫をより多く残すために、男はとにかく多くの種子を女に……ダメだ、抵抗のない言葉がないから文完成させられない。

けれど、女はその中でも最も優秀な遺伝子を見極ることが必要だった。
子孫を残すに適したと遺伝子と考えれば、原始では女性の膣が収縮(オーガズム)し子宮内へ届けやすくしたのでは、という説もある。

で、男はとにかく、とにかくもう種をいっぱいまきたかった。
その名残なのか、経験豊富な男性は、それ自体がステータスで、自慢になる事柄になっていたりする。
逆に女性は経験豊富だとビッチだと蔑まれる。
選んだ男だけを受け入れるのが良いのだ。

性的な事柄、男は性欲を我慢できない、生殖のための本能だから仕方ない!を認めてしまえたら、同性愛なんて性的欲求として異常な性欲であるから認めるべきでないものだ。
ペドフィリア、ズーフィリア、ネクロフィリアの欲求も生殖とは全く関係のない、小児や幼児、動物、死体に性的な興奮だなんて認められない。
生殖の本能に関係なく性欲を我慢できない人間の存在があったら、邪魔になる。ペドが性犯罪をしたとき、ペドの存在を認めていたら性欲に我慢ができないことに、生殖の本能ってどう考えても間違いでしかない。

男性の中のLGBTQ反対派は、生殖の本能を性欲が我慢できない言い訳に出来なくなるのが嫌だ、ということが隠れていたり……しないなら、別にいいんだけど。

多様性を認める共生社会は何のために作る?

世界的に、というか先進国って言われる国が次々にLGBTQを法的に認めている流れがある。人権意識の高さ故なのか、日本よりはるかに認められている国が多い。
日本では、百合も薔薇もロリも、一部のオタクに大人気で、現実では、あり得ない!ものになっていた。あれはフィクションだからって。

日本は人権意識が低いと指摘される。人権意識が低い故に、芸能に性被害が蔓延するとか言われましたね。

でもまあ、その前から、先進国っぽく、多様性を認めようって流れに傾いて行きました。
LGBTQさんが権利を主張し、生き難さを発信して、共感されたから、かもです。
そうして、少しずつLGBTQさんに権利が認められつつある中。
ねえ、PZNも認めて!僕らもすごく苦しいの!となったら。
今度は、最近認められたばっかのLGBTQさんも一緒になってPZNは異常で病気だからダメ、加害欲でしかない、支配欲でしかない、愛でもなんでもなく心が伴わない、相手を無視した性欲だから、絶対排除だ!となっている。

多様性に本当に理解がある、本当に容認する意見であるなら、多分、自分の性欲を相手に押し付けたりはしない。相手の意志を尊重するはず。
だって、気持ちを尊重することが、多様性では重要な部分になるはずだから。

多くの種のまく必要性も感じてないだろうし、ナマがいいとか、そんなものは女性を軽視した見勝手な行為で自分の欲求の押し付けでしかなく、原始の思考だと理解するだろう。安易な種付けなんてしないだろう。

同性愛を認めるというのは、人類にとって大きな転換点になっていると思う。
生殖に関係ない、子孫を残せないひと同士の恋愛やら結婚やらを容認する。つまり、人類の繁栄に重きはもう置かない。それでいいという考え方ができるレベルに、人類の文明が到達したということかもしれない。
それだけの余裕や知性が自分たちにはあるということなのか。

けど、日本では、障害者が生き難い生き難いって言っていて、その上に社会でこころを病むひとが続出で、発達障害なんかグレーゾーン含めたらめっちゃいる!って状態で、そのひとたちに合理的な配慮をって、大きく人権を尊重し、障害があっても生きやすい社会は、みんなとってに生きやすい社会になる!って大々的に打ち出した感があります。

障害なんて理解も無いエライヒトが地域で障害者も認知症の患者も、みんなで協力し合って暮らしてね!って言い出したことです。

地域とか家族でが無理で施設にってなった経緯はガン無視の政策で、もしかしたら、施設への支援をケチりたいのかも?とまで思ってしまう、気軽な感じに提案して、実行が決まりました。
正しい知識さえあれば、認知症なんてへっちゃらさ!と言った感じに、知識だけで、サポート、支援の現実も知らないひとからの、決定事項の通告!?と、わたし、動揺を隠せません。
地域に受け皿が無いのに、地域で!とは何事!!?と思ってしまう事態です。

つまりは、障害者にも、障害者の家族にも、認知症の介助者にも、イメージの出来ないものを、さあ!目指そう!みんなで作ろう!って、作りなさいな、と言われているわけで。
どうやったら作れるのかには、正しい知識があれば大丈夫!という、全然大丈夫じゃないことを言われてるので、理想の共生社会が現実的でないのが当事者には理解できます。

日本のエライヒトは、土台すらない地域に理想の共生社会を作れると本気で思うのか?
思っていない場合は、無責任を自覚しているだけマシなのか? そんな政治でいいはずもないが。
思っているのならもう、おめでたすぎて、目も当てられないし、国民を過大評価しているんでしょう。

なんのために作るのか?
まあ、より良い社会にしたいからではないのは確かでしょうね。
そうだとしても、ノウハウも無いので作れないままになります。
エライヒト以外のみんなに無理を強いて、社会全体が病むかもですね。

ペドフィリアと筆頭に、PZNは性的マイノリティか?

多様性に入りたいPZNのうちの、ペドフィリアさんは、自分は加害はしない、だから大丈夫な存在で、認めてもらっていいはず!と声を大きくして発信しています。
小児性愛のせいで自分も苦しいんだ!好きで小児性愛なんじゃない!と訴えてます。
はっきり言って、現時点、病的な欲求とされているから、治療して、加害しないことを誇りに、子供に関わる仕事もせず、どうぞ苦しんで生きてください、と言いたい。
もし加害者になった場合、その被害者は、苦しんで生きて死ぬ、以外の道がないのです。加害したくないという思いがあっても、小児性愛でいるしかないなら、苦しいのは仕方ないことだと思うし、内心の自由はあっても外には一切出さないでほしい。

小児性愛の欲求発散の例として、小児性愛者の現実を描いたという漫画(フィクション含む)で扱われたものに、苦しさを紛らわすために、現実の児童や幼児の、着替えを堂々と見られるプールの更衣室で過ごして視姦するとか、育児のブログを見て自慰するとか、親にとって許せるはずがない行為をしていて、実害はないと言い張る。
そうしていると知られせて、誰が安心できるの?
安心がなくなった。視姦を常にしているペドがどこかにいることを知ったことで、安心を削ぐことに実害はないのか?

これに実害がないのは、ペドフィリアの中だけです。視姦しているのは、なんとなく気づかれたりします。気持ち悪い人だと避けられて当然で、思わずじっと見てしまった小児の親に警戒されて悲しかった、警戒されることをしておいて、襲ってないのに警戒されるなんて心外!とか言い張れるの、相手の気持ちはガン無視なんだな、とかなり残念な気持ちになったり。
着替え中の子供を他人の大人が見ているなんて異常でしょうに。
覗きのための更衣室利用が認められるのはおかしいです。相手が子供でなければ出来ないことなんですよ。平等に性欲を感じる権利が欲しいなら、平等に法に従って、児童ポルノは以ての外、視姦を目的に裸体を見る許可をとらずに見るとかしない。他の対象に性欲が向いている方と同様に、我慢してください。
言わなきゃいい、バレなきゃいい、まさに性犯罪者の心理。それを自制できないのは、性欲に理性でストップをかけられないことを疑うべき。そうした視線を向けて警戒されるのは、小児性愛でなくとも普通にあります。

そのひとに出来ないことを強いないこと

ペドフィリアさんは現在、事実として犯罪者ではないし、加害しない!と言い張っている。
けれど、加害をこれからも本当にしないで一生を過ごせるかは、一生を終えるまで証明できないことでしょう。
今日はしなかったのは事実。明日もしないは、証明不可能。

加害しないのが当然なのに、それが誇りだとかマジでなに言ってるの?と思うひとは少なくないと思うのですが。
そのひとにとっては困難なことをしているのに、普通ならできて当然、というのは、発達障害の特性でこなすのが困難なことに、出来て当然なんだけど?と言うのと、たぶん同義になる。
その受け取りペドさんはする。ペドさんにとって、加害しないで居られたことは、自分にとってとても意味のある、大切な、出来た!の経験でしょうよ。

でも、ペドフィリアも、ズーフィリアも、ネクロフィリアも、異常だと言い切ることは、現時点では医学的に正しいことかもしれないけれど、現時点の医学で異常なものとされているだけにすぎない。

同性愛も少し前まで精神の異常で現在も世界では犯罪行為とされている国がある。
マイノリティではあるが正常なものとされているのは全ての人間の人権を等しく重要だと考える国や、人間の生殖に関わることをしない生き方を認められる国だ。
なんらかのいろんな行動やらなんやらのかんやらで勝ち取ったとかの話だけれど、事実としてあることは、認めさせたということ。
PZNについてが認められない未来が来ないこいうことは、来ると言い切れないのと同じで、来ないも言い切れない。
生殖に関係のない性的欲求だからの排除では、LGBTQも対象になる。からして、今度は相手に同意の確認が不可能な欲求だからダメだ!という文言での排除にかかった。

けれど、同意なく自分の性的欲求を満たす人間と言う異常者の犯罪者は、PZNだけではないし、LGBTQさんにだっているだろうし、異性の大人に性的欲求を向ける、生殖本能として正常な性的欲求の持ち主にも、たくさんいるのだ。
それを踏まえると、何であれば多様性として認められるのかとか、言ってなんかいられないのだ。

多様性を論理的に考えれば、誰の権利も保証し、どんなひとの特性も心理も容認するので除外していいものがない。つまり、論理的思考に基づき、感情論を排除して、自分にとって気持ち悪い存在の気持ち悪いところを差別しないこと、が最も多様性が反映された状態になるのかもしれない。
それは、特性や心理が生理的に受け付けなくても、あなたのことは本当に無理、とか言ったらいけない社会になるということだろうか。

ホモソーシャルのノリでは容姿のからかいも弱点の指摘もノリで娯楽で、雰囲気を楽しくして失敗も自虐として笑って話す、雰囲気とノリがすべてである、とホモソについてをある男性が言っていた。

そのノリで、女性との会話を試みては、セクハラだと問題になる。ジェンダーのマイノリティには、より慎重にならざるを得ないのかもしれない。女性も同じ。

実際、マイノリティであったからして、マジョリティにはその情報がほとんどない。
性の多様性に関する講義で、男子学生が大真面目に、自分の恋愛の対象は女性だけなのに、ゲイに告白されたときに断ってはいけないのか?と質問したくらいだ。

性の多様性を認めた社会というものは、よく知らないでイメージすると、好きでない相手の告白を受け入れないことが差別に当たるとまで考える、それくらいに得体のしれない存在であるらしい。

好きでもない相手、恋愛対象にもならない相手の告白を断らない方が、相手にとって失礼であるという、通常の判断すらが差別になるかもと考えたら、怖い社会だろう。

多様性について、煮詰まったのか行き詰ったのか、さっぱりわからない!のが現在のわたし。

レズビアンさんが加害しない保証もなく、ゲイさんが、バイセクシャルさんが加害しない保証もなく、シス男性さんが加害しないわけでもなく、シス女性が加害しない保証だってない。
内心の自由で、心の中では何をどう自由に思うことは当たり前に認められる権利という前提はあれど、それは性的な妄想かもしれないし、全然違うかもしれない。現実でそうされてないから実害はない。見えるものからはその事実しかない。

ペドフィリアも、子供が目の前にいるからと、子供に性的な目線を向けているだけで、内心で性的な妄想をしている可能性があるだけで、現時点での実害はない、が誰もが見える結果。対象にされた、と感じた親の不快感は、実害にはカウントされない。

でも、性被害者の当事者の女性としては、好きでもなんでもない相手に、ましてや何にも知らない関係のないひとに、勝手に自分を性的な妄想に使われることを不快に思っても、我慢するしかないことは、非常に強いストレスだ。
そうすることがあるなんて告げられたら、最悪な気分で、加害されたと同等のショックである。

内心の自由としてあなたで性的な妄想する可能性を容認してくださいの姿勢が当然である相手の前に、自分を晒すのは無理だ。男女問わず、どんな性にあっても、誰に身を晒すことにも、今まで以上の警戒をしないでいられない。

性被害は自衛するしかないのが現状なので、ただのひとより一歩進んだ警戒をせざるを得ない。
そうすることを告げてきたLGBTQ、シス男性、シス女性、全員に、踏み込んだ警戒をする。

自分以外にもそうしていることにすら、勝手に憎しみを覚えるひともいるだろう。

ペドフィリアの思考自体が許せないから、子供を守るため、視姦を阻止すべく、その思考を率先して否定したい、わたしの気持ち。
異常心理でなくジェンダーのマイノリティでしかなくなったら、たちまち差別主義者と呼ばれるだろう。
社会がどうとか関係なく、性的なことのすべてが無理。
だって、他人の勝手な欲求をぶつけられて、誰にも守ってもらえなかった過去がある。
ズッタズタに切り裂かれ、壊された自分を、守れるのが自分だけで、社会も司法も警察も、加害者の味方なのを実体験で知っている。
実際に体験するまで、誰も知ることのない心理で、できれば他の誰にも味わってほしくないものだ。
それが起きた瞬間、自分を守ってくれるのは自分しかいないのに守れもしない。自衛で避けたことに不快とか言われても関係ない。
だって自衛しただけ。不快に思ったかもだけど、実害はないでしょう? わたし、あなたのこと、怪我もさせてない。

差別のない世界って、なんていうか、自分の生理的に受け付けないものや、強い嫌悪を感じる事柄に対しても、その嫌悪を表明してはいけないのだろうか?

人権が認められているのは、全人類の生きている人間で、犯罪者であろうが、死刑囚であろうが、異常な心理を持っていようが、どんなに性格のねじ曲がった人間でも、障害の有無も関係なく、大人も子供も、赤ちゃんも、みなが等しく持っている。

それを尊重して生きるのが多様性を認めた社会なのだ。
自分には到底理解できない事柄や心理と、それを持つ相手と否応なしに共存する社会。それが共生社会。
正直、共生したくないない心理や事柄があるのだけれども。

先進国であればそれがいいはず!作りましょう!目指しましょう!この多様性のある共生社会なら、誰もが生きやすくなります!

どうなんだろう? 本当に誰もが生きやすいのか?

心底嫌いなひとの自分に容認できない特性や心理の部分すら、わたしが嫌だと言うことにすら、嫌だと言われるのがツライ、特性や心理にを理由に避けたりされるのツライ、差別じゃないか!と、その当事者が言っているのだけれど。
わたしの嫌だと感じる心の方が異常心理とされる日が来るのだろうか?

けど、同性愛を理由に差別するのは不当だ!とか言いつつ、ペドフィリアは異常だ!認めない!って、その正当性を論理的に言葉にすることは難しく、感情でなら理解に容易く否定の理由がスラスラ出る。

ペドフィリアには子供の権利を侵害する恐れがあるかもしれない。
けど、あるのは恐れであって、論理的に言うなら、人権侵害をした事実は現時点では無い。
でも、感情で語れば、その心理を持った人間が子供のそばに来ること、見ることだけで、多くの親は実害に感じる。

でも、ペドフィリアさんたちは、たかがそれだけのことで実害とみなされるのがツライらしい。
触りたい欲求を抑えられたことが、当事者にとってはすごく頑張った事実であるらしい。
することが難しいの判断は、本人がすることではあるから、大変な努力であることは否定しないけれど、それでも不快でしかないこの感情は、どこに向けて発散すればいいのだろう?

実害の定義が、難しい。
論理的に、こころを傷つけたと判断できるのは、心理的負担によって、精神的に調子を崩す原因になった場合だけだろうか。精神をなんとか保てている内は、実害でないのだろうか。
当人にそうしたい意図もないのにそうしてしまっているとなったら、その特性の人間と関わってしまった、自己責任になるのだろうか?
と言ったら、ノリでやった傷つける意図はなかったことで、やられた側の苦痛にも、やった側の責任はないにならないか?

とか言ったら、多様性の社会には、障害やら特性やらマイノリティにしか、お得なところなんてないじゃない!って感想でまとめたくなったりして、わたしには推奨できないものになってしまう。

苦痛を強いられることが当然の人間はいるのか?

精神障害のある当事者、発達に偏りがある当事者、性被害の当事者、としては、マイノリティに苦痛を強いることについて。

とくに、そんなにいないとされているから、マイノリティとされるだろう大勢の性被害者たちは、実質の加害者だけでなく、社会からも多大に被害を受けたと感じている。
その性被害の当事者として、人権が無いことに憤りを感じるし、誰にも平等にある人権を享受できないことは、踏みにじられていることは、許すことができない。
マイノリティだから、少数派だから、踏みにじって良し、を許してはいけないのだ!のスタンスをとるしかない。

でも、それらの主張を広義にすることは、どうにも抵抗がある。

それでも、個人にとっての許しようのない価値観だけを排除していい論理的な理由はない。

人権を踏みにじられるのはツライと毎日のように性被害者が訴えて、当然の権利だったはずのものを、自分と言う存在そのものを、踏みにじられることが人間にどんな影響を与えるのかの理解が深まる毎日で、性被害でなくとも、人権を享受できないのは、誰でもツライのだ。と言わざるを得ない(こんな曖昧な言い方になるのは、あまりに踏みにじられたために、自分に価値がないという確信を持ってしまっている、持たされてしまっているから)。

ちなみに、社会の反応からすると、性被害者の人権は踏みにじって当然である、守るべきは加害者だけ、という扱いを受けてきました。
その警察に司法に、大勢のセカンドレイパーたちに、踏みにじったつもりもないままに踏みにじってくださって、あなた方を心底軽蔑します。という気持ちでいます。

ちなみに、その相手は男性だけではありませんので、性差別はしていません。

そして、自分には価値がないと考慮しても、性被害において被害者に落ち度がないのを証明しようとすることすら妨害する社会も司法も憎たらしいので、感情論ではなく論理で認めるべきな人権なら、どんなものも認めてやりゃあいいじゃん(投げやり)!と感情論で言いたくなったりします。

その特性とか心理によって社会で孤立したり苦しだりしているわけで、その苦痛を強いることが当然なのか、を断言するのはなかなか苦しい。
落ち度がないはずなのに、落ち度を指摘される矛盾にぶち当たる気持ちは、自分の努力が相手にとっては普通のことでしかないと嗤われる、発達の特性に対するものとある意味似たもので、似た感情ならそれがツライだろうことは推測できる。

とは言ってもの、ハココの本音


快適な暮らしを健常なのに出来ないくらいの社会になってるし、配慮もしなきゃとか、マジか……って思うの当然だと思う。

で、障害や特性やら、マイノリティで苦しいを強いられているのみなさんには、その理想の社会ってやつは、社会のみんなで作ることになっていまして、だから障害者も特性があるひとも、ジェンダーのマイノリティのひとも、作ってもらうのではなく、話し合って、一緒に作るのがいいと考えます。

健常者とかマジョリティだけが配慮を考えて作ったって、配慮の見当違いをする可能性が大きいですし(様々なマイノリティを理解されていない感は当事者が一番理解しているでしょう)。
望む理想の社会は個人に寄り添ったきめ細やかな配慮を、様々な当事者さんはご所望のようで、それが当然の社会になってうることが望ましいと皆さんがおっしゃっているので、ぜひ、その社会を作るための行動や発信(声を届けることを重視して)をしたらよろしいのだと思います。

せっかく新しい社会、みんなが生きやすい社会をみんなで目指そうってエライヒトが旗を振っていらっしゃいますので、その社会を作ることに参加せず人任せで作られた社会の不備だけ言ってるのは、ちょっとズルくない?って思ってしまうので(ただの消極的な障害者の意見です)。

余裕がないのはみんな一緒。自分こそが本当に大変なんだ!って思うのも一緒。
なのに、自分こそが、特性や障害で一番大変なんだ!は受け入れ難いものなんです。
障害の有無関係なく。病気、障害、特性での大変さ、ツラい気持ちに優劣をつけないのが、困っている立場では共通認識としてあると思っています。

どうか健常のひとにも適応してください。敵視しても、なにも良いことないと思います。だって共生を目指すのだから。

わたしも、健常者のひと、配慮する側の気持や心理的な負担を考えつつ、なにかその社会作りには貢献できればと思っています。

正直、わたしは、ひとそれぞれの、本当にどうしても許せないっていう価値観や、特性や、心理は、個人として容認しないという立場を表明しても良い社会が欲しいです。
だって、誰にとっても生きやすい社会なんて、本当に理想論でしかなくて、誰かがその理想を支えるために負担を強いられたりすると思うから。
配慮されて当然って、やる予定のなかった仕事を急遽回されたりが、会社では当然に起こることになるし、それに文句を言うのがおかしいんだ!って言われたらモヤモヤする。
特性とかでなく、ひととして嫌いなひとを、特性持ちだから嫌いって言えないとか、君の対応が怖いと言ってあのひとは出社できない!と言ってるぞ!なにをしたんだ!って、そのひとにとって不機嫌がデフォルトだったらどうすんの?って思う。

弱者に文句を言うな。そんな前提があって、それで対等に付き合えるわけないじゃないですか。
相手は自分にノーを突き付けることが許されて、こちらにはその権利も無いの?って(え?そんなこと思わない?わたしのこころが狭小の極みなのね)。

わたしは、嫌いだと言ってはいけない世界になって、誰にも嫌いと言わない配慮なんかいらないんです。
堂々と嫌いと言ってもらえた方が、わたしは気持ちがラクなんです。
そうじゃないと、わたしにも嫌いと言う権利はないことになるので。

理解され難いことは理解してるのに、理解と配慮を求めるのこそ、変だって思う。
だって、健常者を理解してない障害者とかの、障害に特性に心理とかを、こっちは理解して配慮してあげなきゃいけないって変じゃない?って、ならないの?
ならないなら、いいんですけど。

弱者は虐げられてきた。優性保護法とか、過去にはあった。
けど、助けてもらえた、手伝ってもらえたことに、感謝の念すらないのなら、横柄な態度をされたりするなら、聖人ではないわたしは、報酬でもないとしたくないと思ってしまう。

もちろん、報酬はお金じゃなくて「そのひとが好き」である自分でも補えるけど、そう思えない相手に当然の配慮を、極悪非道な冷酷な人間であるせいか、わたしには、とてもできない。

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