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傷おそれ捨てようとした関わりを、味わうようにのぼれ坂道。

休みの日、遅めの昼食もかねた早めの夕飯にと、チャリで買い物にいった帰りみち、T字路にさしかかって目の前を、近所に住んでる長い髭の、仙人みたいな風貌したおじいちゃんが通りすぎるのがみえた。あわわ、どないしましょ、今日わたし一言も発してないやんか、うまく声だせますかしら、なんて思いながら、少しある距離をうめるように、ちょっと大きめの声で挨拶したら「おー!」と右手をあげながら、そのまま壁の影へと吸い込まれていった。

したら、思わず、わっ、と声が出ちゃいそうになって、実際には出なかったんだけどそんな感じになって、それはどういうことかと申しますと、壁に吸い込まれていったおじいちゃんの上半身だけがひょっこりと、覗きこむように戻ってきて「元気か?」と言ってきたのである。人はそんな質問をされたとき、どんな答えを思い浮かべるものだろうか。わたしは凡人であるからして、誰しもが思い浮かべるであろう言葉で返すと「そうか」とニヤニヤしながらそのまま去っていった。

わたしはT字路を右に曲がって帰る。曲がるまえに一瞬、左を向くと、あー、と思った。なんだかおじいちゃんの後ろ姿が、強烈に、若々しかったのである。家へとつづく細い坂みちを、食材をカゴにぶち込んだチャリを押して登りながら、これからあのおじいちゃんはどこへ行き、そしてなにをするんだろう、なんてことを思った。急に自分が老けこんでしまったような気持ちになって、そして、同時に、老いたからこそ触れられる世界みたいなものがある気がして、それは縁側に座って日向ぼっこをしながら微笑んでいるような、それは知りすぎてバカになってしまったものを、一度ぜんぶ忘れてしまって賢き賢き、わたしはこうして生きていて、わたしとは違ったように生きている人がいる、という、当たり前をあらためて知るような感覚。


春には散った桜の花びらを、夏には蒸れた空気に草木のにおいを、秋には眩しくて切ない斜陽を、冬には積もりそうな牡丹雪を、チャリで切り裂いていく下り坂。景色がまるで早送りみたいに、感じる暇もなく過ぎていく。何度も何度もみているはずなのに、どうしてだかうまく思い出せないでいる。風はとどまることを知らなくて、もしわたしと同じように、過ぎ去る風景を忘れてしまうのだとしたら、それはきっと、ちょっと寂しい自由。

まるで浮世絵の見返り美人のようだった、おじいちゃんの振り向き姿。シャカシャカ緑の上着をはおって、ぶかぶかベージュのチノパン履いて。美人だなんて、とても言えたもんじゃないけれど、似合っていたからそれでよし。まっすぐな背筋して、大丈夫そうな足取りで、だんだんと小さくなっていく後ろ姿は2019年みたいに、まるで何もなかったようなツラをして、ただただ通り過ぎていく。

春には道に積もった桜の花びらが、夏には地面におちた枝の影が、秋には端っこに寄せられた枯葉が、冬にはまだ固まっていない小雪が、風にゆれてる上り坂。景色をコマ送りするみたいに、ひとつひとつがいちいち目につく。ここに住みはじめた数年前のあの日から、変わりつづける日々の時間は動かないまま止まったまま。根をはる木は動くことを知らなくて、もしわたしと同じように、いつもどおりの風景に閉じこめられているのだとしたら、それはきっと、ちょっと虚しい平和。

人は孤独だよ。それが真実だとしても、ほったらかしにされてなかったことを喜びたい。あの瞬間、心が軽くなった気がした。個性を叫びながら、共存という掲げた旗のもとで個性を殺す矛盾のなかで、わたしはたしかに、共に生きる、ということの、その鮮やかさに触れたのだと思う。

不足した関係では寂しくて、過剰な介入では苦しくて。だからわたしは断ち切ろうとした。苦しさから逃げ、寂しさすら感じないように。なのに、なんでだろう。知らず知らずのうちに暗いところに迷いこんでいたからかも。そうやって引き戻してくれようとする小さくてやわらかい光に、なんだかいろんなものが込み上げてきて、つい、希望を抱きたくなってしまう。



こわいけど、新しいことに踏み出すのって、いいよね。