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夢をみたいと、吠えたから。

「佐藤さんとこの犬!」そう言われた。唐突に。突然に。場合によっては悪口というか悪口で、そしてわたしは犬ではない。なにをもって人間とするかといえば、やっぱりそれは二足歩行かとも思ったが、だとすると猿とうまく区別ができないな、と思う。だが、猿はハーフ&ハーフだ。走るときなんかは四足歩行で、二足で走っちゃうおちゃめな猿は、もう人間ってことでもかまわない。

ってなことを考えてると、どうしても頭のなかで、鳥がぴよぴよ鳴いている。二足歩行っちゃぁ二足歩行だけど、あいつを人間と呼ぶわけにはいかないだろう。全身が羽毛だらけの人間はいるかもしれないけど、飛べちゃう人間はただの人間じゃない。わたしは常時、二足歩行でありそして飛べない。ただの人間であり、犬ではない。

そんなわたしは、わん!とでも言ってやろうかと思って、やめた。どうせ四足歩行するのなら、猫がいい。人もまばらになった昼すぎのスーパーで、もう選ぶ楽しみのなくなったお弁当コーナーからマシなもの手にとって、そしてまた来た場所へと戻っていく。そんな決まったお散歩ルートから抜け出して、カフェの隅っちょの窓際の、西日が少し眩しくなる席で、ぎりぎり間に合ったランチを待つあいだ、グラスについた水滴だけを眺めていたい。



グラスについた水滴の、そのひとつひとつにそれぞれの、今とは違った世界線が映ってて、おしぼりを広げてグラスにそえて、そんな世界を拭きとっちゃう。垂れた世界はコースター。水滴ではなくなってしまったそれはもう、世界もなにも映さない。

猫が毛づくろいするみたいに髪を指に巻いちゃって、うわー枝毛ぇ、とか思っていたい。そろそろバッサリ切ろうかな、だけど結ってるこれは楽だしな、みたいな、誰の役にも立たないことで、頭のなかを満たしていたい。今はもう、あのころ思っていた将来で、注文したランチがメニューの写真と違っていたとしても、出されたものを食べるしかない。



スーパーでおばちゃんと目があった。若干?こっちを知っていそうな表情で、だからと言って話しかけるでもなく、けどスルーすると無視っぽいから会釈した。何も始まらないくせに、なかったことにはしない会釈って超便利。そんなことを思ってたら、今度はカップラーメンの棚のとこ、もう少しでお弁当コーナーってところで、正面どうしでこんにちわ、ってな事態となって、「佐藤さんとこの犬!」そう言われた。

猫がいいのに…そういうのは頭のなかだけの話で、現実のわたしはただ立ち尽くしていた。早くしないとお弁当がなくなってしまうし、犬から話を膨らませる自信もない。子供がそのまま大人になったみたいな笑顔で「ほら、佐藤さんとこの犬の!」と言われて思い出した。

このおばちゃんは佐藤さんのお向かいさんで、佐藤さんというのは、この家族が旅行などいく際に、わたしが預かる柴犬の飼い主だ。「あとよろしく!」そんな雑なメッセージがスマホに表示され、なんだかエネルギッシュな人たちだな、とか思いながら歩く道の街灯はほんのり暗くって、誰も居ない他人の家から、ひとりぼっちになってしまった犬をこっそり連れ出すときに目があって、気まづい思い出になってた人。



はい、とせんべいを渡された。岩手のやつ!岩手のやつ!と連呼しながらクタクタの、茶色い合皮のカバンから取り出したそれは割れていて、油分が袋の内側に、べとっと貼りつきくすんでる。ここはスーパー。商品にもならなさそうなこのせんべいで、怪しまれたらたまったもんじゃないからと、過剰に愛想をふりまいて、これじゃあまるで、餌付けされてる犬じゃぁないか。

預かる柴犬は無愛想。仔犬のときは家のなか、あんなにちやほやされたのに、大きくなったらずっと外。大きな木のテーブルは丸くって、グリーンの絨毯はごわついて、出しっぱなしの扇風機は部屋のすみ。赤色と水色の、ランドセルから飛びだしてる噛みたいもの。そんなガラス扉の向こうには、もう触れることは許されない。ずっと外に出たくって、ずっと外になっちゃって、誰かのiPhoneがささってるオーディオセットのせいで、うまく笑い声が聞こえない。

あのころに憧れていたものは、思ってたのとは少し違ってて、手に入る自由はリードの長さのぶんだけ。何度かこの場所にやってきて、もう見慣れた窓から外を覗いてくる猫は、家のなかこそ世界のすべてだと言いたげで、憧れなんて最初からなさそうで羨ましい。預かる柴犬はもう、吠えもしない。



こわいけど、新しいことに踏み出すのって、いいよね。