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「おわり」って誤魔化してきたことたちを、ぜんぶ許したような白色。

職場の近くのパン屋さんのおばあちゃんが軽快なステップを刻みながら「おりますか〜?おりませんか〜?」とかなんとか言って、にやにやしながら近づいてきた。おっ、どうした、壊れたか、なんて思いつつも、こっちもつい釣られてにやにや眺めてたら目の前で「返事が聞こえないってことは、いないってことですか〜?」なんて言いながら、ポケットからミカンを二個、パンを一個とりだして、そして、くれた。

つまりどういうことかと申しますと、お察しの通りこのおばあちゃんとは知り合いでございまして、んでもって、もう今年は会えないかもしれないから、ってなことで、年末のご挨拶をしにきてくれた、ということであった。挨拶なら挨拶らしく、いかにもかしこまって近づいてくれればいいものを、芸者崩れみたいな動きをされちゃぁ、こちらも小馬鹿にしてる風な感じのお出迎えになっちゃって、今年の最期に、大きな後悔を残してしまったことが悔やまれる。

とは言いつつも、このおばあちゃんは何も気にしてなどいない様子で、気にしない力こそ年の功、なんくるないさー、を筆頭に、縁側で座ってるおばあちゃんを神や仏の類として崇拝する者もいるとかいないとか。ともあれこうしてわざわざ、挨拶を律儀にしてくれるというのは、まんざらでもないものである。なんて思ってたら「あんたも孫みたいなもんやからね」と言われ、てやんでい江戸っ子でい、みたいな姿に見惚れながら、すこし早めの「よいお年を」を交わして、そしてお互いに他愛もない、よくある日常の風景にまた、溶けていった。


手渡されたミカンは今が食べごろと言わんばかりにオレンジで、パンの焼き目もいい感じにオレンジ。雪が降りそうな曇り空のもとでおばあちゃんの頭にはすっかり雪が積もって白色。積み重ねた年のぶんだけ、笑ってきた歴史が刻まれた目尻のシワは、うまく言葉じゃ言い表せないことがもどかしく、だけどそれがなんだか嬉しい、まるで芸術みたいだった。

音もなく今年はいまにも過ぎ去ろうとしていて、終わりを告げる挨拶はまた、なにかが始まってゆく期待のようで。だからこんなにも哀しげなのに、胸の奥からふわふわと、なにかが込み上げてくるように高鳴るのだと思う。出会ったときに手を振るのはきっとその中に、さようなら、も含まれているから。

頬杖をつきながら、スマホを不器用そうに黙々と、指で撫でてるその姿は華麗だった。おしゃれをしても見せる人がいないから、と、最近はずっと白髪のままにしているこのおばあちゃんスマホのケースは、ダリアの花のような深い赤。「今年は帰ってこないんだって」家族のことをそう話したときの表情は儚げで、すぐにまた、パァーっと花が咲くように明るくなったその姿は移り気だった。


どこかの誰かにスマホの操作を教えたことをきっかけに、あの人はスマホを教えてくれるらしい、そんな話が広まったらしく、そうこうしているうちに出会ったのがこのパン屋のおばあちゃんだった。わたしはスマホの専門家じゃないし、そもそも機械が苦手なタイプの人間であるし、おばあちゃんコミュニティなんて、想像したら魑魅魍魎が跋扈していそうな、大きく口をあけた扉の奥からの手招きにビビりながらも、正直めんどくさい、なんて思っていたわたしはいつの間にか馴染んでいたらしい。

と、そんなことを考えるわたしは、ふと、物思いにふけりたくて、たそがれるのである。渦中にいるときは気づけないアホなわたしにもわかるように、わかりやすいカタチで「おわり」というものはやってくる。このまま、こういうものが続いていくのも悪くない、そう思っていても、始まったものはいずれ終わるのだということを、年末がくるたびに思い知らされる。

だけど、始まることもなくぬるぬると、終わらない地獄があふれているこんな世の中で、ちゃんと終わりを迎えられることの、なんとありがたいことか。涙が流れそうになるあの感情によって、この胸につっかえていたモヤモヤしたものが、すべてきれいに許せてしまうと気づけたときにはすでに手遅れなほど、いろんなことが遠く離れてしまった後の祭りで、そしてわたしはまた、ほろ苦い気持ちと共に、次なるなにかを始めてゆけるのだ。



こわいけど、新しいことに踏み出すのって、いいよね。