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【自分と向き合う時間】 最近は「デイサービスをする必要があるのか?」「何がしたいのか?」そんなことを考えていた。

最近は、自分にとって何が大切なんだろうか、何をしたいのだろうかと迷走をしていた。
1ヶ月近くモヤモヤしていたが、ようやく霧が晴れそうな気がする。
忘れないうちに、言葉として残しておこう。

はたして「vision」は必要なのか

結論から言うと、僕はNOである。
様々の会社のHPを見るとvisionが記載されていることが増えて来ている。
visionは、会社が目指す状態なので、あることが望ましいのかもしれない。
しかし、僕はどうしても目指すべき場所が見えない。
むしろ、定めない方が良いのではないかとも思う。

そもそも、我々(会社)には、自分が主体的につくりたい世界観がないのである。
ただ、我々が、「何を大切にしているのか?」「何をすべきなのか?」というように、「あるべき姿」はあるのだと思う。

それが、ココなら(デイサービス)を始める時に掲げたキャッチコピー(理念)である。

「生きててよかった。」を届けよう。

この言葉が、我々の存在意義とも言える。
何か迷った時に立ち返る思想である。

目指すべきvisionはないが、あるべき姿(mission)を大切に事業を進めて行こうと思う。

なぜ、デイサービス(ココなら)なのか?

ここに対しては、正直な所、明確な理由がないのが事実である。
よく周りから聞かれる質問ですが、答えに困る。

社会課題の解決を目的とするソーシャルビジネスでは、他のビジネスよりもペルソナを大切にすることが多い。

貧困、食、福祉、教育...

ソーシャルビジネスには様々な分野があると思うが、きっと誰のどんな困難を解決したいのかが明確なのではなかろうか。

僕にはペルソナはいないのである。
この誰かのために、なんとかしたい!と思える人はイメージできない。

今まで介護業界で働いてきて、「もっとこうすれば良いのに」と思うことはあった。

しかし、介護業界を変えたい!という強い思いは、残念ながら、さらさらない。

僕は、この街(三原市)に住み続けたい。という思いはある。
人口9万人程度のなんとも中途半端で何もないと言われる街だ。
しかし、その中途半端具合が僕にとってなんとも心地が良い。

三原市という舞台はとても余白にあふれている。
いかようにも自分が主体になり、遊べて、学べて、実験ができる。
そして、美味しいものもたくさんある。
何より、とても素敵な人たちと出会ってしまっている。

これ以上に、住みたいと思う理由はないだろう。

ただ、三原市に住もうと思うと、働く場所が必要である。
僕にとって、働くということはとても大切。
仕事は、人生の多くを占めるだろう。
そうであれば、心血注げる組織で働いてみたいと思うのは当然だ。
僕は妥協できなかった。

ただ、僕にとって、心から働きたいと思える組織がなかったのだ。
自分が心から働きたいと思える組織を自分で作ろうと思った。

だから、デイサービスでなくても良いのだ。
今までの自分のリソースを考えると、最も実現可能性が高い事業がデイサービスだった。

それだけだ。

ココならでは、何をしようとしているのか?

介護業界で働いていて、感じていたのが、主語や目的の曖昧さだった。
自立支援介護、生産性向上...
言葉先行で実態が伴っていないと感じざるをえない場面もみてきた。

この課題感(モヤモヤ)を解決したいと思い、大学院へも進学した(もう中退したけどw)。

僕は、小難しいことを考えるのは苦手である。
ココならでは、本質的かつシンプルに考えていきたい。

エンドユーザー(利用者・家族・地域)がより良い人生を歩めるサポートをしていくだけなのである。

最終的な数値目標をKGI(key goal indicator)と言うそうだ。
ココならにとってのKGIは何になるのだろうか。

売り上げなのか?店舗数なのか?従業員数なのか?

きっと違う。

ココならにとってのKGIは、『「生きててよかった。」と言ってもらえる、思ってもらえる人数』なのではないかと思う。

ココならが関わる対象者(利用者・家族・地域)が、どれだけ「ありがとう」と言ってもらえる機会をデザインするかが最も重要だと考えている。

介護のための介護ではないことだけは、念頭に置いておきたい。

具体的にどのような支援をするかはまだ決まっていない。
アイデアはあるが、対象者ありきだと思っているので、現時点でのメニュー化は避けなければならない。

ただ、一つだけ決めていることがある。

それは「対話」である。

利用者と職員、職員同士、経営と現場...

どのシチュエーションにおいても、他の組織よりも圧倒的な対話量を生み出したいと考えている。

個人的には対話量と良いケアは相関しているのではないかと思う。

現場職が良いケアをすることは、経営者としてコントロールすることはできないが、対話量を増やすことはコントロールできるかもしれない。

その時間を捻出するための、生産性向上でありICT化なのである。
介護現場のDX化は良いケアをするための十分条件だと思う。
(※十分条件の使い方合ってるかな?w)

間接業務の効率化には、覚悟を持って進めていかなければならない。

ココならがやっていくことで決まっていることは、①対象者が「ありがとう」と言ってもらえる機会をデザインする。そのために②対話量を増やす。対話時間を捻出するための③DX化である。

機能訓練でもおむつはずしでもユマ二チュード(認知症支援)でもない。
なんとも地味なものであるw

最後に私は何をするべき人なのか...

僕は、中学生か高校生の時どちらかは忘れたが、学校からの帰宅中に「自分が死んだらどうなるんだろう?」と坂道を自転車で漕いでいる時に、葬式が行われている場面を考えたことがある。

自分がいない世界で、どのような会話が生まれていると嬉しいのかなと想像をしてみた。

良い意味で「あんなやつ居たよな」と笑って会話してもらいたいと思った。
つまり、自分の人生において、自分と関わりを持った人に対して少しでも良い影響をもたらしたいという完全なるエゴである。

このエゴはエゴでも自己満足で終わらないところが良いところでもある。
誰かを笑顔にしなければ、達成しえない。
実際に、このエゴを用いながら、いくつかのチャレンジをしてきた。
少なからず、関わりを持った方々は笑顔になっていた。

僕は持病に喘息があり、小学生の時はよく入院をしていた。
朝起きた時の胸の喘鳴で、「今日は入院するだろう」と予測がつくくらいに精度は高まっていた。
入院期間は1週間〜2週間することになる。

退院して、初めて学校にいく時は、いつも緊張した。
「どうやって話そうかな」「受け入れてもらえるかな」と校舎に入る前に校庭で考えていた。
そして、いつも校舎に入り、一言二言、友達と会話を交わすと不安は払拭されるのだ。

幼いながらに、コミュニティや場によって救われていたのだと思う。
もし、否定的な対応をされていたら不登校になっていたかもしれない。

だからこそ、いろんな人が「癒される」「居心地が良い」「頑張れる」といった前向きな感情になれる場やコミュニティを作り続けたい。
そしてそれが、僕のエゴも達成してくれるはずである。

今回のデイサービスを起点した組織作りはコミュニティデザインとも言える。
今まで、働く組織とは「こんなもんだな」と思って諦めていた人がココなら働いてみて(組織に属して)良いと思うようなコミュニティを形成していきたい。

組織として、目標や目的を追うイメージは、目的までの階段を登っていくイメージではないだろうか。
僕は、『「生きててよかった。」を届けよう!』というmissionを中心に、そこから放射状に"影響"という射程距離を伸ばしていくイメージを持っている。

明確な方向性はない。
出会っていく人々によって、目指したい方向は変わっていくものだろうと思う。
ただ、振り返った時に大切な理念を確認できる状態ではありたい。

「そんなの理想だよ」と言われるかもしれないが、そんな理想に向かって挑戦できることは幸せなことだなと思う。
楽しみながら苦しみながら、やっていきたいな〜。

僕自身の生き方がそんなものだ。
偶発性を楽しめる組織を目指したいし、そんな人生を歩みたい。

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