はきくま

メンヘラだろう、

はきくま

メンヘラだろう、

最近の記事

    • ふと気づいたこと。

       最近、多忙な日が多く土日関係なく動いているため曜日感覚がなくなるものだ。やりたいことがあるのに、目の前にあるやらないといけないことに囚われて何もできなくなってしまう。  なぜ私は、目の前のことに囚われているのだろうか。 理由は単純だ。  「そのことが好きだから」  好きじゃなきゃやりたくないし、毎日になると苦痛に感じるだろう。  今日もまた囚われていく。

      • 人は出会いもあれば別れもある。そんなの最初から分かってたら出会いたくなかったよね。

        • “if”の繰り返しの中で生かされている私たち

           出会いもあれば別れもあるというがどれを取ったって必ず終わりは来る。もしあの時、もしこうしていたのなら、と” if”の繰り返しの中で生かされている。    例えば些細なことなら今日の夜ご飯は魚を焼いてご飯にするか、たまには、と外食をするか。 行く着く先は少なからず変わっているものだ。  では、あの時に選択しなかったものをもし選択したのなら、今はどういった人生を歩むのだろうか。    中学生の頃まで遡るのなら、もしあの時もう少し勉強してもう少しいい高校にに進んだのなら、その先

          生と死

          生きるのは簡単なのだと私は考える。  私たちは自然と呼吸し、眠り、目覚め、活動をする。 そこに生活という要素が入り込むのだがそこのハードルも少し高い。 だが、死というものは非常に難しいものである。 呼吸せず、意識がなくなり、心臓の鼓動が止まる、と言った生活する機能が停止するものだ。 その点では簡単なのだと考えてしまうものだが、 実際に息を長らく止めてみてもだんだんとキツくなり、本能的に息を吸うという行動をするのだ。 心臓の拍動を今すぐ止めろと言われても止められないのもそうであ

          時間が止まる。

          時間が止まる 皆が過ごしてきた時間が突如として止まる。 「教室の時計は14時46分を指して止まったままだった。」 これは被災地に行った先生の言葉だった。 時が止まった教室。取り戻すことができない時間、日常。 当たり前だと思っていたことが突如として壊される。 その時、私たちは地震の恐ろしさに気づかされるのだ。 私たちは自然の摂理には抗えれないのだと。 東日本大震災もとい、東北地方太平洋沖地震が起きた前までは今まで通りの生活をするはずだった。卒業シーズンでもあり、友人や先

          時間が止まる。

          「私の好きな時間」

          私の好きな時間は、彼女と過ごしていた時間だった。 私にとってその時間は私の生きがいで希望だった。過ごしていくと私の中で癒しであり、いつも彼女は私を快く暖かく迎えてくれた。また、私の吹く楽器の音色を好きだと言ってくれ、私の中で何か希望が見えたような気がした。すべては彼女のために。 私はあの時間がとてつもなく大切で大好きだった。もう彼女と過ごす時間は訪れないのだろう。私の好きな時間はもう二度と来ないのだ。

          「私の好きな時間」