3.営業先の考え方:Fラン卒が業界最大手で最年少社長賞をもらうまでの成果と反省

思ったような職場ではなく、配属からずっと辛い日々を過ごしてきたが、ようやく「自分の仕事」ができるチャンスを与えられた。新規営業である。だが、都会と違って地方の極小箇所では、思いつく様な仕事は既に先輩の誰かがやりつくしていた。当然、競合他社も居て、真っ向勝負では勝てない。

私は若気の至りで「この箇所で一番の数字を獲得してやる」と息巻いていた。オススメはしないが、自爆営業(自身で購入し、数字に積み上げる)できそうな商材や、邪魔にならない商品を知人に買ってもらう、みたいなことは、無理ない範囲で既に励行していた。悪徳マネージャーに「社員は持ってて常識」と言われ、高額なカードも契約した(翌年、解約したが)。

一見、頑張る方向性を合理的に見て間違っている様に思えるが、これは、やりすぎなければ実は近道である、と考えている。商材を自分で試すことで、実体験を帯びたトークが身につくし、知人に売ると「嫌がられる」ので、なぜ要らないのか、またはなぜ買ったのか、が分かるのである。また、この様なケーススタディは、学校では与えられても、実践が求められる場では与えられるとは限らない。

押し売りは絶対にせず、親身になって、むしろ消極的な営業をすることで、商品の性質と顧客の性質が少しづつつかめてきた様な気がした。後に、この商材で、私は最も顧客が無い担当時代に、瞬殺で一番最初に売りき、営業社員競争キャンペーンだったのに「売りすぎ」としてランキング外にされた挙句、後輩社員に定期的な需要を法人契約させるほど、売り方のプロになった。

だが、私の担当の基本はBtoB(対法人)の営業だったので、一部、toCも仕事に含まれていたが、これもあくまでの「練習」に過ぎなかった。私は、来る日も来る日も、与えられた潜在顧客リストを頼りに、未だよく知らない営業エリアを慣れない運転で回り続けた。✘ばかりが積み上がり、「需要無し」の報告ばかりを繰り返した。元々、厳しい市場での営業だった為、責められることは無かったものの、私は無力感にさいなまれ続けていた。そして、次第に愚痴っぽくなってきていたことに気が付いた。

私は、憧れない先輩のようになるべきではないと考えて委はが、既に同じサイクルに入っていることを心から嘆いた。そして「無い仕事を得る為」に考えた結果、この市場にこの商材では「先輩からの引継ぎ」か「競合他社の牙城崩し」しか選択肢はないこと、加えて、前者は期待できないことを言葉にして理解した。であれば、「競合他社の牙城」の情報を先輩に聞いて回り、「ハードな営業先リスト」を作ることに決めた。よりいばらの道であるが、明確なニーズはある上に、先輩方は手を付けたがらない仕事だった。

今にして思えば、新人とは、能力が無く、能力が無い者は教えを乞う代わりに、人が嫌がることをやり、実力を認められるまで取り組み続けるしかないのだと、言葉では理解ができるものの、当時はそこまで丁寧且つストレートに教えてくれる人はいなかった。だが、早くこの点に気づくことができれば、今とは違った辛さを得つつ、「成果に着実に近づく」or「実力が身につく」ものだと考えている。

先輩には「辞めろ」と言われそうだったので、この「ハードな営業先リスト」を開示はしなかったが、何となく話を聞きだし、リストを持って、意を決して回り始め、以前よりも激しい「門前払い」を受け続けることとなった。

自分勝手に動いたものの、先輩との関係もできてきた頃であったので、先輩に腹を割って、本気で相談やお願いをして、より可能性がありそうな他社牙城や崩し甲斐のある牙城、あるいは、他社牙城の崩し方、みたいな話を聞ければ、より成果に繋がったかもしれないと、少し反省している。

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