コンプレックスの連鎖と貧困問題

僕は、沢山のコンプレックスを持っている。
プロフィールには、聞かれてもいないのに「Fラン大」とか、「一浪」だとか書いている。
子供の頃はよくいじめられたし、横に広がる体型や、事あるごとにくしゃみが出やすいアレルギー体質だとか、出自だとか、あるいは運動センスだとか、もうどうにもならないことばかりが、心の深いところに刺さって離れない。理屈ではない。

僕が務める外資系コンサルなんて、学歴に誇りを持っている人ばかりだ。学歴どころか、医師・弁護士・会計士etc...難関国家資格ホルダーもわんさかいる。大半がその学歴と実力が相関しているし、なんなら大学教授や講師、研究員なども担う方が居るので、より鮮明になるのだろう。
そして、恥ずかしげもなく同門で徒党を組む人もいるし、特に社会経験が浅い人に多い気がするが、明確に低偏差値を批判・否定めいた発言をする人さえいる。聞くと呆れたり頭にくるが、発言をしないだけで先輩諸兄も本質は変わらないと思うので、持たざる僕には参考になる。

僕の両親は、地方の町村出身だ。僕自身地方都市で生まれ育った。祖父母は中卒、両親は高卒だし、なんなら実業高校だ。そして僕の両親、特に、日系の古株に勤める父は、明確な院卒・大卒・高卒の序列があって、偏差値の上下で与えられる仕事や発信力が異なることに、大変なコンプレックスを抱いていた。結果的に、父は自ら出世を拒んで趣味に生きている。

学歴コンプレックスは1番わかりやすいが、例えば「ブス」と呼ばれ続けた女性は、男性諸兄が思う以上に大変なコンプレックスを抱いていることが多いし、「運動神経が悪い」と言われて補欠ばかり拝命していた男性は、大人女子が理解できないくらい、心根でサッカー部が大嫌いだ。

社会で活躍する事は、大半は、仕事で成果を上げることだろう。勉強やスポーツで平均点を取るよりも、積極性や能動性、或いは調整力や、空気を読まない突破力が必要になる。
そして、この原動力は大抵が「自信」や「誇り」であり、特に自信とは、努力をしないと得られないものなので、成果と結びつくことでより強固になる。
厄介なのは「誇り」だ。これは、ほとんどが教育と思い込みで成り立っている。外的な評判を根拠に考える人もいるだろうが、特に日本人はお世辞がうまいので、そもそも誰も「すごいね」なんて心では思ってないのに、褒められると勘違いする人がたくさんいる。僕もよく、そうした嘘をつく。便利だからだ。でも、本当は「大学が何だ。お前の価値評価は18歳のままか。恥ずかしいやつだな」と言いたい。

逆に、努力が報われなかったという人は、成果や評価の仕組みに関わらず「ダメだった」と思い込む。大学入試など顕著だが、たまたま受験した年の定員に対する倍率や合格点のラインに乗ったかどうか、それも問題の当たり外れ(得意/不得意)のような博打にあたったかどうかも含めた努力なので、自信を失う必要はないのに、だ。失った自信は「コンプレックス」になる。できなかった事は変わらないし、それをバネになんて、できたら良いが、なかなかできない。頑張った実感があればあるほど、才能が無いとか、限界があると決めてしまう。

自分で限界を決めるのは、大きな損失だ。なぜなら、「難しい」や「新しい/前例がない」に弱く、壁を越えようとする気力すら起きにくいからだ。就職氷河期世代は、本当にわかりやすいが、世代、つまり生まれた年だけで才能の良し悪しが決まるわけが無いので、社会にとっても個人にとっても大きな損失なのだが、この根源がコンプレックスなのだと思う。

そして、厄介なのは、このコンプレックスは連鎖するし、思い込みたる「誇り」も連鎖する、という事だ。近頃は傾向も変わりつつあるものの、医者や政治家一族は、我が家の職業は全ての職業の頂点だと思い込むし、シングルマザーは、この子は大学に入れて、良い会社に勤めて、不自由なくしたい、と思いつつも、そうなりそうに無いと知ると絶望する。

かくいう僕の場合、そろばん教室を開いていた母が「我が息子はとっても頭がいい」と、他の生徒と比較しては思い込んだ。そして、あろうことか勉強を強制しなかった。頭の良し悪しはそろばんの出来不出来では決まらないし、進学するには詰め込み学習が肝だったりするのだが、本人はそう思っていたらしい。

人は、出身大学の偏差値で頭の良し悪しや仕事の出来不出来は決められない。それほど単純な仕事など、少なくとも現代には残っていない。しかし、価値観は人が死ぬまで消えないし、特に親の思いが強い「コンプレックス」と「誇り」は、次世代へ一子相伝で受け継がれていく。1世代かそれ以上分、時代遅れで連鎖していくのだ。

僕は、浪人して偏差値が低い大学を出ている。いつも、高偏差値大や院卒に対して、勝手に気を遣って、それで疲れている。加えて、高卒や専門卒に対して、おかしなフィルターを少なからず貼っている。頑張ればいいのに、と思っている。自分にも当てはまっているのに。僕は、このコンプレックスから一生抜け出せないと諦め、「あんな経験やこんな仕事」は、僕にはできないだろう、とか決めつけている。

コンプレックスのネガティブな連鎖は、成功体験をし続けることで、圧倒的な成果を得ることで止まるとも思っていた。当てはまる人も居るかもしれないが、僕は、そうではないこともわかった。そして、旧帝大卒は東大京大にコンプレックスを抱いているし、東大京大は、失敗してはいけない、と思っているようだし、国費留学者や海外院卒に引け目を感じている人もいるようだ。

今、コロナ禍においてはより格差が開いて、貧困が加速している。コロナが明けても、基本構造が変わらないので、これまで以上に悪化していくのでは無いかと思う。ベーシックインカムが救済措置になるという人もいる。だが、改めて、多くの政治家や高級官僚には、頑張れない/頑張る機会を失った人々の考えや気持ちはわからないのだという実感と絶望がある。平等なんてあり得ないし、努力は報われないことも多いが、仕組み上の上下と、その上下への「上の無頓着さ」が根源であって、救済措置とか、リセットする機会が無いことが最大の問題では無いかと考えている。

今の日本を生きる人の上下、はいつから決まっているのだろうか。

そして、上下を決定付けるファクターは、わかりやすい競争と、そのわかりやすい結果でしかなく、そんなものはパフォーマンスに過ぎない。にも関わらず、社会では、上から下を眺める構図であるので、結果重宝がられる。

人生の豊かさは、経済的な豊かさやポジションでは無いと心から思うが、連鎖するということは忘れてはいめない。そして、断ち切る/リセットをしなければならないと思う。僕自身、心根にはこんなにネガティブで絶望感があっては、全く楽しくない。全ての行動が、現実逃避みたいなもので、「本当の僕じゃない」とか、「ガラッと変わる良い常態の僕がいるはずだ」と思い込んでいる節がある。人それぞれあると思うが、このネガティブ連鎖を解消しなければ、人の上下の構造は変わらないし、下から上に上がる事は相当ハードルが高いので、貧困は解消されない上に、本来はより貢献度が高いはずの人材が、努力も満足もせず、くすぶる。

僕は、先ずは自分自身をなんとかしたいと思いながら、呆然と意義を見出せない仕事を繰り返している。

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