「英語が話せる」か否かは主観的な解釈に過ぎないので解釈を変えてしまえばよい
仮に高校時代の私が英語を話せるか否かを問われた場合、話せないと回答していたはずなのですが、この回答は主観的な解釈に過ぎないと考えています。このように考える理由は単純で、人によって英語が話せるかどうかの基準にバラツキがあるからです。
大学院時代の私が知り合った米国人は言語学で修士号を取得し、当時は日本で英語の発音を指導する会社を経営していたのですが、氏によると私はネイティブのように英語を話せるとのことでした。当然ながらお世辞も入っていたはずですが、当時の私は自身がそこまで英語を話せる自覚はありませんでした。今思い返してみると、米国人かつ英語の専門家の方がそのような評価をしてくださったのであれば、お世辞分を引いたとしても「私は英語が話せる」と考えても差し支えないはずです。
このように、英語が話せるかどうかは主観的な解釈が大いに影響するわけですが、裏を返すと解釈さえ変えてしまえば、一瞬にして義務教育で英語の授業を受けた私たちならば英語を話せると言えるようになるのです。例えば米国人に日本語を話せるか否かを問うと、胸を張って"sushi"や"ninja"と言われそうですが、単語を知ってさえすれば外国語を話せると解釈し直すことだって可能だからです。
これは極端な例ですが、私たちは義務教育で"I like sushi"あるいは"I am not a ninja"くらいの英語を話せるわけでして、単語だけではなく正しい文法の文で外国語を話せるのです。つまり、私も人のことは言えませんが、英語を話せないと思っている人たちは「英語を話せる」と答えられる基準が厳しいだけであって、既に思いのほか英語を話せるのです。
結局のところ、英語が話せるかどうかは主観的な解釈に過ぎないのです。自身は英語が話せないと思われるのであれば、英単語を3つほど話してみてください……3つも英単語を話せるのであれば、あなたは既に英語を話せています。おめでとうございます!