見出し画像

「迷惑をかけてはいけない」という呪文

「迷惑をかけてはいけません」

この言葉は、きっと誰もが一度は言われたことがあると思う。

それはそうだ。迷惑をかけられたら誰だって嫌な気持ちになる。もちろん内容にもよるけど、なるべく迷惑はかけられたくないと思うのは当然だ。至極真っ当な正論中の正論だ。

でも、同時にこれほど難易度の高い教えは中々ないと思う。そもそも僕らは人に迷惑をかけないと生きてはいけない生き物だ。

例えば「家族」という社会的に認められた小さなコミュニティがある。これはほとんどの人が関わっているコミュニティだと思うけど、その中でも僕らはお互いに迷惑を掛け合っている。

ご飯を作ってくれる人、洗濯をしてくれる人、掃除をしてくれる人、買い物に行ってくれる人、お金を稼いで来てくれる人、仕送りをしてくれる人、送り迎えをしてくれる人。

パッと思いつくだけで、コレだけの事を誰かが誰かにしてくれている。「迷惑だと思わない」という人もいると思うけど、多くの人は一度は「迷惑だ / 迷惑をかけられている」と思った事があるんじゃないかな。

仕事においてもそうだと思う。ミスをカバーしてくれる人、心身を気遣ってくれる人、コーヒーを入れてくれる人、愛想笑いをしてくれる人、悩みや愚痴を聞いてくれる人。とか他にも色々。

「俺は人に迷惑をかけない生き方をする」って、スーパー真人間なこと思っていても、どこかで気付かない間に迷惑をかけているものなんだと思う。

画像1

これだけ互いに迷惑を掛け合っているのに「迷惑をかけてはいけません」なんて言葉が、どうして世間一般の当たり前としてあるのか。これはもはや呪文だ。

僕はこの呪文が人の「孤独感」を助長しているんだと思う。

「迷惑をかけてはいけない→自分でなんとかする」って方程式が出来上がっているんじゃないかなと。これは推測だけど、多分マジメな人ほどそう考える傾向があるように思う。

正直な話。問題があって、それを自分でなんとかする力は必要だと思う。そうする事で人は学び成長していくし、そうしている時の方が楽しいとすら思う。

でも「迷惑をかけてはいけないから、自分でなんとかする」って考え方、めちゃくちゃ疲れるねん。全部自力では出来ないでしょ。自分なら絶対ムリだし、そもそも嫌だ。余裕のあるときはまだしも、いつも元気なわけじゃない。

しんどい時は相談したり、泣き言言ったり、出来る人にお願いしたりしてもいいと思う。というか、そうするべきだ。ちょっと冷たい表現になるけど、そっちの方が効率もいい。それが迷惑だと思うなら、人に同じことされた時にそう思うって事だから、少し心の狭い人間に見えてしまう。

多分、それが迷惑だと思う基準って「当たり前」だと思っている事だと思うんです。さっき例にあげた家族や仕事での出来事も、その対象が「してもらって当たり前」だと思っていたら、それが誰であれ途端に迷惑に感じる。

坊さんみたいな事言って恥ずかしいんだけど「当たり前」の反対って「ありがとう」らしいです。「有」が「難しい」と書いて「有り難う」らしい。(自分でもうるせーバカと思ってる。)

この言葉が、人に迷惑をかける時の免罪符で、これを忘れたらアカンですね。とはいえ、言葉だけじゃなく態度にも示さないと中々伝わらないんだけど。

「迷惑をかけてはいけません」って呪いは、こんな事を偉そうに書いている僕にも当然根付いてる。余裕でブーメラン。でも人間関係って、迷惑をかけたり、時にはかけられたりしながら、許し許されて構築されていってると思うんです。

それを認めていけば、もっと自由に生きていける気がするのは気のせいか。自分自身、そうあれたらなと思ってるけど、まぁこれもなかなか難易度は高いよね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?