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「坂の上の春」その3

坂の途中まできたとき、彼女はフィアンセとの約束を思い出した。
どうしてこの坂を上っていたのか、それまで思い出せずにいたのだ。
「そっか、そっか、この坂の途中のレストランで待ち合わせたんだっけ。」
フィアンセと彼女は、最初にこの坂の途中のレストランで出会った。
「春の風」という名のレストランで、彼女はウェイトレスのバイトをしていた。
そこにやってきたのが今のフィアンセだ。
彼は最初、確かスパゲッティとコーヒーを注文した。彼からオーダーをとったのは彼女だった。
しかし、彼女はきわめておっちょこちょいだった。彼女はコーヒーと言われたにもかかわらず、レモンティを持って行ってしまったのだ。しかも、そのことには全く気付いていなかった。
彼は何も言わずにスパゲティを食べ、レモンティを飲んだ。
そして、会計の時、レジに立った彼女にこう言ったのだった。
「次は、ここのコーヒーを飲みに来ますよ。」
彼女は初めて間違いに気付き、顔を真っ赤にして、
「すみません。」
と蚊の泣くような声で言った。
彼は微笑んで、そして店を出て行った。
その微笑みは、父親の微笑みにも似ていた。
そして彼は、1週間後、本当に店にやってきた。そして、同じものを注文した。
彼女は、今度は間違えずにスパゲティとコーヒーを持って行った。
彼は笑って、
「今度こそ、この店のコーヒーが飲めるな。」
と言った。
彼女も思わず笑ってしまった。
彼はその後も、しばしばその店にやってきた。
頼むものは大抵同じだった。きっと相当気に入っていたのだろう。
店も、料理も、そして、彼女のことも。

それからしばらく経った秋の日、彼女は美術館にフェルメール展を見に行った。
美術館を出て、駅に向かって歩いているときだった。
「あの、すみません。」
と後ろから声をかけられた。
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには彼が立っていた。
「あ、お客様。」
彼女は思わずそう言ってしまった。
「ここでは客じゃないですよ。」
彼は笑顔を見せながら言った。
「あなたもフェルメールを?」
「ええ。」
「そうでしたか。僕もさっき見てきたところなんです。暫くぶりでここまで出てきたんで、ちょっと公園を散歩してたんですよ。そうしたら、あなたが歩いてるじゃありませんか。」
「よく分かりましたね。」
「それはもう、あなたの後ろ姿も、正面からの姿も、横顔も、何度も拝見していますからね。」
「よくいらっしゃいますものね。余程お気に入りなんですか。」
「ええ、私はあの店がとても気に入っているんです。何だか、自分の家のようでもあり、全く知らない外つ国のようでもあり。」
「そうなんですか。実は私、あの坂の下の道沿いに住んでるんですよ。」
「そうなんですか。じゃあ、店からは近いですね。」
「ええ、歩いて5分とかかりません。ちょっとあの坂を上るのがきついですが。」
「どうですか、こんな所で立ち話もあれでしょうから、もしお時間があるのなら、どこか店に入りませんか。」
「そうですね。そうしましょう。」
彼女は自然に答えた。
それが彼女と彼との初デートになった。

そして今日は結婚記念日。
結婚記念日には必ず2人が出会ったあのレストランで食事をすることにしていたのだ。
あの人はどうしたのだろう。ことによると、もう先に店に入って待っているのかもしれない。
彼女は急いだ。
しかし、意に反して彼女の足はなかなか前に進んではくれなかった。
何だか坂が前より長くなった気がする。
登れども登れども、なかなか坂の中程にも達しないのだ。
「今日は足が疲れてるみたい。」
でも、何としてもあの坂の上に辿り着かなければならない。そう彼女は思った。

(つづく)

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