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芸術作品の「賞」について

9月に僕の演劇ユニットFavorite Banana Indians(FBI)は「池袋演劇祭」というものに参加しました。これは、池袋近辺にある小劇場で9月に上演される劇団の舞台を、一般公募で選ばれた審査員が見て点数をつけ、それに基づいて賞が与えられるというものです。池袋の周辺には多くの小劇場が集まっているので、ここで演劇祭を開き、小劇場を盛り上げるとともに、池袋を文化都市としてアピールしていこうという意図で開催され、今回で30回を迎えました。
僕はこの演劇祭の存在をかなり前から知っていて、一度は参加してみようと思っていたのですが、なかなかタイミングが合わずにいました。今回は、去年から参加を予定して劇場を押え、準備をしてきたのです。いろいろ目論見と違ったことがあって、「満を持して」という感じではありませんでしたが、とにもかくにも参加にこぎ着けました。
当然、うちの公演にも審査員の方は見にいらっしゃいました。審査員は好きな芝居を見られるわけではありません。演劇祭の事務局から割り当てられた団体の舞台を見ることになっています。つまり、何を見るかの選択権は審査員にはありません。そうすると、別に好きでもない、時には嫌いなジャンルの芝居を強制的に見せられることが出てきます。(逆も当然あるのですが。)要するに、当たり外れがあるということですね。そしてそれは、審査されるこちら側にも言えることです。

「賞」の持つ力
そうやって賞が決まります。池袋演劇祭には12の賞があります。参加は今回51団体ですから、賞を貰えるのは限られた団体ということになります。一番いいのは当然「大賞」で賞金も多いですが、その他でも何か賞を取れたというのは結構大変なことです。当然、取れた団体は喜びます。
しかし、「賞」が力を発揮するのはこの後です。賞を取った団体は、これ以降あらゆる場面で「池袋演劇祭○○賞受賞」という謳い文句を使うことができます。次回公演のチラシにも入れられますし、劇団員や公演の出演者募集でも使えるフレーズです。劇団員が他の舞台や映像作品のオーディションを受ける時にも使えます。そして、その言葉を聞いた人のほぼ全員が、「賞を取ったのか。凄い劇団なんだな」と思うわけです。簡単に言えば「箔がつく」わけですね。
これは小説の世界に置き換えればよく分かります。芥川賞や直木賞を受賞した作家は、その後ずっと「芥川賞作家」「直木賞作家」と呼ばれ続けます。新作を出版する時も、キャッチコピーとして「芥川賞作家、待望の書き下ろし新作!」などと使うことができ、宣伝効果を発揮します。誰だか分からない作家が書いたものよりも、芥川賞を取った人が書いたものの方がきっと面白いに違いない、と多くの人が思うからです。その作家自身も、「芥川賞に選ばれるくらい素晴らしい小説が書ける人なんだ」と見られるようになります。小説やエッセイの連載の依頼がたくさん来たり、テレビのコメンテーターとして呼ばれたりするようになるでしょう。
そして、はっきりしているのは、何の賞ももらったことのない作家には、決してこういうことは起きないということです。

人は肩書きが9割?
僕もFBIも本当に「賞」というものに縁がありません。そもそもあまり応募していないというのもありますが、本当に何も持っていないのです。必然的に、僕は評価されません。「賞」というのは、その審査方法に関係なく、その分野で能力や才能がある人なのだろうという「客観的な」証であるようにみられます。僕の知り合いがどれだけ僕のことを肯定的に評価しても、それは僕の知り合いだからそう言っているのだろう、つまり「身内」だからこその(あまい)評価だろうという風にとられるのです。「賞」は「正当に評価された」ことの証明なのです。
しかし、先に書いたように、審査の仕方や、誰が審査したかによって、結果は如何様にも変わり得ます。ましてや、スポーツのように数値となって現れるものと違い、芸術作品の場合は誰もが納得できる客観的な指標がありません。にもかかわらず、「賞」を取ったというだけで「クオリティの高いものを作れる人」という評価になるのです。賞を取っていない人は、その逆で凡庸な人、もしかすると素人に毛が生えた程度の人ということにされてしまいます。
「人は見た目が9割」といいますが、「肩書き」もまた相手を判断する重要な基準の1つになっています。無冠の人間は選ばれたことがないのだから、特別な価値がない人間。その人間の創作物は同じく特別な価値がないもの。そういう理解になってしまいます。逆に、そう思われていた人が何かの賞に選ばれると、人は手のひらを返したように評価も態度も変えます。多くの人は何も本質を見ていないのです。僕も「○○賞受賞」の肩書きを持っている人と並べられれば、劣った人間と判断されてしまうのです。一面ではそれは正しいのかも知れません。けれど、それがすべてでしょうか。賞を取ったことのない人間が作ったものは自己満足の産物でしょうか。

何の賞も取ったことのない人間、無冠の人間が言っても、すべて負け惜しみと取られてしまう。それもまた悔しいです。

そんなことを書いていたら、劇作家のケラリーノ・サンドロヴィッチさんが紫綬褒章を受章したというニュースが入ってきました。この人は、演劇界の芥川賞と言われる岸田国士戯曲賞受賞者でもあります。
ケラさんと比べたら、確かに僕などはその足下にも及ばないので、納得するしかありません。

でも、いつか僕も「この人が何の賞も貰ってないなんておかしいよね」と言われるくらいの存在になりたいです。「賞」ではなく、作ったもので人を黙らせたい。唸らせたいです。
実はその方が遙かに難しいんですけどね。

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