見出し画像

「息吹肇」と「柿沼直樹」の相違点〜自己紹介にかえて〜


はじめまして。息吹肇と申します。
突然ですが、僕のもう1つの人格は「柿沼直樹」と名乗っています。
世の中には、どちらかしか知らない人、両方とも知っている人、片方には面識があるけど、もう片方とは会ったことがないと思っている人がいます。
noteを始めるにあたって、この2つの人格がどう違うのかを解説していきたいと思います。なお、この2人が同一人物だと信じて疑わない方にも、是非この文章を読んでいただきたいと思います。

「柿沼直樹」の幼少時代
1960年代の半ば、柿沼直樹は東京の郊外で生まれました。時はまさに高度成長期。三種の神器が家に入り始めた頃です。柿沼の家は教師である父親が厳格であったため、直樹はテレビというものを殆ど見ずに育ちました。例外は、「科学忍者隊ガッチャマン」と、父親も楽しんでいた「シャボン玉ホリデー」そして「ゲバゲバ90分」でした。
また、音声だけですが、古典落語にも親しんで育ちました。家では父親の趣味であるクラシックが常に流れていました。母親は出版社の編集者で昼間は家におらず、直樹は「鍵っ子」として小学生時代を過ごしました。親が帰ってくるまでの間、暗い家の中で、彼はずっとテレビを見ていました。それは、親がいれば決して見せてくれないであろう、仮面ライダーシリーズやキカイダーシリーズといった戦隊ものでした。
こんな環境で育った直樹は、「いい子」でいなければならないと無意識のうちに知っていました。どんなにクラスの会話についていけなかろうと、「8時だヨ 全員集合!」など見たいと言ってはいけないと分かっていました。運動音痴で野球もできず、友達といえるような人が殆どいない彼は、いつしか自分の中で勝手に物語を作り始めます。そして、数少ない友達と帰りながら、その物語を友達に話すのでした。
思えば、この頃直樹の中で、「息吹肇」の受精卵が形成されていたのかも知れません。

「息吹肇」の誕生
柿沼直樹の中で、息吹肇は徐々に成長していきました。オリジナルの紙芝居を作り、小学校の卒業式の前日の謝恩会で上演されたクラス劇の脚本を作り、高校3年生の時の文化祭のクラス劇で「王子と乞食」を脚色して上演しました。しかし、彼にはまだ名前がありませんでした。大抵の人は、あれは「柿沼直樹」が作ったのだろうと思っていました。直樹本人もそう思い込んでいた節があります。確かに、大学に進学した後、直樹は演劇サークルに入ることをしませんでした。自分は高校で演劇から足を洗ったと思っていたのです。
彼が入った大学には2つの劇団がありました。当時は大学の演劇サークルから小劇場に進出していく劇団も多く、当然サークルのメンバー=劇団員は劇団活動を中心に学校生活を送っていました。つまり、単位なんて取れなくて当たり前、留年は普通のことという状態でした。直樹は演劇で人生を棒にふるなどという考えはこれっぽっちも持っていませんでしたので、劇団には入らず、かといって講義も適当にサボりながら、自由な日々を過ごしていました。
しかしこの時期、再び「息吹肇」が胎動を始めていたのです。どこのサークルにも入らない代わりに、直樹は自分の出身高校の演劇部にOBとして出入りし始めていました。上の先輩にそういう人が複数いたので、そこに便乗したのです。「指導」と称しながら、直樹は後輩の可愛い女の子を物色しつつ、演劇部の活動を見続けました。
大学2年の6月、運命の時が訪れました。演劇部員達が、その年の文化祭と地区発表会で上演するオリジナルの脚本を求めていたのです。前年度別のOBの先輩の脚本で県大会に出場していた演劇部は、その年もオリジナルの上演を希望していました。その先輩に背中を押される形で、処女戯曲「プロメテウスの炎(ひ)〜その昔、人間は考える葦であった〜」が完成したのです。まだ名前こそ名乗っていませんでしたが、これが「息吹肇」が世の中に生まれ出た瞬間でした。

「息吹肇」が育ち、「柿沼直樹」と衝突する
「プロメテウスの炎」を上演した演劇部は、2年連続の県大会出場を果たしました。これで自分が「認知」されたと思った肇は、その3年後、初めて名前を名乗って、赤坂の今はない小さなスタジオで自主公演を行いました。その時点で、直樹はあんなに恐れていた留年をして卒業できず(演劇が原因ではありません。ゼミの教授との軋轢でした)、内定していた高校の非常勤講師の職をフイにしました。
しかし、この時点でまだ直樹は人生を「正常な」軌道に戻そうとします。その約2年後、直樹は教材出版社に正社員として入社します。繁忙期で芝居どころではなく、肇は暫く身を潜めることになりました。しかし、それでも肇は存在自体は消えませんでした。忙しい仕事の合間を縫って、何回か公演を行いました。小さな劇場ばかりでしたが、肇にとっては貴重な活躍の場でした。職場の人が数名見にきてくれて、思ったよりも本格的にやっていると思って下さったりもしました。
この頃創設されたのが、今の肇の活動の拠点であるFavorite Banana Indiansです。そして、そのあたりから直樹と肇の「衝突」が始まりました。2人は1つの身体を共有しています。ですから、使える時間も労力も常に1人分。どちらが自分のために多く取れるか、奪い合いが始まったのです。肇はアマチュアとして演劇をやるつもりはありませんでしたので、脚本を書いたり稽古をしたりする時間と気力・体力をできるだけ多く欲しがりました。直樹はそれを察しながらも、生活のための仕事を止めることができず、おまけに組合活動にも首を突っ込みました。実際、肇の演劇活動の資金の殆どは直樹が稼ぎ出していました。それに、長男である直樹は、まだ一般人の幸福、すなわち結婚して家庭を持ち、子供を育て、親孝行をするという選択肢を捨て切れずにいたのです。

「柿沼直樹」から「息吹肇」へ
それからかなりの年月が経ち、直樹は精神的なコンディションを崩しました。そして、会社を辞めざるを得なくなったのです。1年間、直樹は何もできませんでした。直樹と身体を共有する肇も動けなくなりました。
この時期、直樹は何とか元の軌道に戻ろうと、前職のスキルを活かせそうな様々な会社に履歴書を送りましたが、玉砕しました。就職支援事業の担当者は「あなたが今就ける仕事は、警備員くらいだ」と言われました。
その時、直樹は悟ったのです。これからは、「息吹肇」として生きていくしかないのだと。そして、普通の人の幸せも老後の保証も何もかも諦め、「柿沼直樹」の名を捨てて、身体も心も「息吹肇」に開け渡そうと決心したのです。
それから、肇の茨の道が、辿り着くべき場所も見えない、長い長い旅が始まったのです。そして、その旅は今も続いているのです。

時々、直樹は恐る恐る顔を出します。両親は年老い、これから先のことを考えた時、いつまでも肇のままでいられるのか、と。肇の本格的な活動はまだ緒についたばかりで、財政的な基盤も弱く、いつ退場を迫られるか分からないからです。
それでも、「息吹肇」としてしか生きる術を失った人間にとって、直樹に戻ることは死を意味します。これは比喩ではありません。
だから、肇はこれからも旅を続けていくでしょう。いえ、続けなければなりません。
「息吹肇」の存在とその作品を1人でも多くの人に知ってもらうこと。それこそが生き延びるための唯一の方法です。

これまで「息吹肇」が書いてきたもの、そしてこれから書いていくもの、それらは全て冥土の旅の一里塚なのです。

簡単に終わらせようと思った自己紹介が、思いの外長くなりました。
だいぶ端折った部分もありますので、それはおいおい書いていくことにします。

こんな感じで、クリエイターとして思うところをつらつら書き連ねていくと思います。更新は不定期になるかと思いますが、どうかお付き合いの程、宜しくお願い致します。

長文を最後までお読みいただき、有難うございました。


この記事が参加している募集

#自己紹介

230,124件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?