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スマホの中のセカイ

電車に乗る。いつもならニュースでも見ようかとポケットの中のスマホを取り出しアプリを立ち上げるところだ。前の電車がつまっているとかで、出発時間が遅れる。周りの乗客のため息まじりの息づかいが聞こえるが、次の瞬間には、みんないま見ていたスマホの世界へ没入しだす。

ふと、この世界は何なのだろうなと思う。現実に存在する自分。その自分が電車に乗っている。電車に乗っている「ヒマ」をつぶそうとして脳をスマホの世界に没入させる。その時間は、いつも見慣れた景色を見ながらただぼーっと電車に乗っているよりは『有意義』な気がする。でも、気がするだけな気もする。

この事象だけを眺めると、スマホが悪い、あんな小さな画面にみんなが夢中になってしまって、スマホがなかった時代は牧歌的でよかった、なんて声が聞こえてくる。たしかに、首を落として無理な姿勢でスマホを眺める人たちを見ると、「もっと現実を生きろよ」と言いたくなる気持ちは、分からないでもない。電車の中をざっと見渡してみると、7割くらいの乗客がみんな首を落として食い入るように小さな画面を見ているのは、はっきりいって異常だろう。

ただ、スマホが出てきた頃よりもずっと前、古くはテレビやラジオや雑誌や小説や映画にいたるまで、どんな媒体も「コンテンツ」を流し、現実とは別の世界を見させるものであったのだ。両者にはたいして違いがない。人類は退屈な現実の時間を削って、「コンテンツ」でヒマをつぶすことにやっきになっているのだ。そして、そのコンテンツを創り出すためにとてもみんなが忙しくしてる。

あぁ、きっと人というのは「ヒマ」が大嫌いなのだろう。「ヒマ」で死んでしまう人もいるくらいだから、多くの人にとって「ヒマ」は痛みがあるもので、それを解決してきたのが、「コンテンツ」、とくにエンターテイメントなんだろうと思う。

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ゲームに没頭していた時期が長くあった。本当に長くて、ひとつのゲームはシリーズ合計で10年間毎日のようにプレイしていたし、もうひとつのゲームはオンラインRPGで5年遊んでいて約3年の「プレイ日数」であった。ゲームは現実とくらべて圧倒的に楽しい。現実と比べて楽しく設計されてしまっているから、「ヒマ」をつぶすには最適なものに仕上がってしまう。ただ、その頃は何がなんだか本当によくわからず遊んでいたのだ。

いまはどうだろうか。現実をよく眺めてみればそこそこ面白いことで溢れていることに気づけたのかもしれないし、人によって創られたものに慣れすぎてしまって、時間の使い方としてお釈迦様の手の上で弄ばされている気持ちになって、妙に警戒してしまっているのかもしれない。

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AIやロボットが進化していくと、最終的には、人が「ヒマ」を解決するためのコンテンツさえも、自動的に最適なものが提供されるようになると思う。ただ、私たちは狭間の世界に生きている。人が創り出すものに価値をつけて見てしまう。同じ内容が書かれているメールと手紙があったとして、多くの人が手紙に価値を感じてしまうように。手間暇だけではない、人の心が通っているかどうか、そこはAIやロボットが獲得し得ないものであり、狭間の世界に生きていた人たちが最後に残してしまう、人の心なのだろうと思う。

生まれた頃から自動的に生み出されるコンテンツが溢れる世界に生きるデジタルAI世代の多くは、きっと人が創り出す(たぶんちょっとしょぼくていびつな)コンテンツにさほど価値を見いださないだろう。厳密に言えば、車社会の現代で馬車に乗るようなもので、馬車はいまや特別な体験をする「イベント」として価値はあるが、普段それを体験し続けたいとは思わないのだ。ゴツゴツとした乗り心地の悪い馬車に乗ることが、なぜ特別な価値がもたらされるのかもよくわからない人もたくさんいる。

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テクノロジーの進歩は止められない。人類の歴史が証明し続けてきたものだ。もう、どうしようもなく人類は進化を止められたことがない。だから、今回も受け入れるしかないのだろう。狭間の世界に生きる道は、その進化を受け入れ、身を委ねるほかにない。今回の変革はこれまでと違う大変なことが起こりそうだという予感もしつつ、これまでの歴史上の『反対派』もきっと同じ気持ちだったはずだ(が、いちおうなんだかんだ人類はテクノロジーの進歩のメリットを享受して幸福度の総数は上がってきている)。

この世の中はシミュレーションの世界で、本当の現実はシンギュラリティが起こった後の世界なんじゃないかと思う。この宇宙そのものをすべてシミュレーションできるレベルまでテクノロジーが発展してしまって、いまそのシミュレーションの中のひとつに歴史探訪に来ているだけ、と思ってしまうくらい、こんな歴史の転換点に生まれたことに感謝しかない。そのときの役割として、まだまだ人類に役に立っていることができている感じがほとんどしてこないのが辛いところだけど、10年前と比べたら、ちょっとだけより良い世界に近づくための動きや働きかけができるようになってきた気もする。

シミュレーション世界を動かす機械が突然停止して、卵型のカプセルがプシューと開いて、「はい、おつかれさまでした。次はどんな歴史を観に行きますか?」という高次元の世界がなんだか本当にありそうな気がしてきている今日このごろ。今度、こんなイベントに出てみます。


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