見出し画像

あの人のアールグレイが忘れられなくて

あの人からは、いつも紅茶の香りがした。

20代の頃、同じ会社にHさんという年上の女性がいた。
10歳くらい離れていただろうか。

部署は違ったが、私が所属する部署と常に連携が必要なため、仕事で話さない日はなかったはずだ。

Hさんはあめ玉のような丸い頬をしていて、上半身ががっしりしている割に足の細い人だった。
いつも笑顔で、不機嫌な表情や声が刺々しかった記憶が一切ない。
おまけに天然で、男女問わず好かれていた。

出会った当時、私は新卒で入って2年ほど。
周りは年上の人ばかりで、気楽に話せる人もすくなかった。
誰とも分け隔てなく話すHさんは、上司や先輩というより「年上のお姉さん」だった。

Hさんはお笑い芸人のバナナマンと電気グルーヴが好きで、よくライブに行っていたそうだ。
バナナマンは日村さん、電気グルーヴは石野卓球さんが好きだと、まろやかでコロコロとした声で語っていた。

邦楽に詳しかったのか、飲み会で私が当時好きだったマイナーな歌手の話をすると、面白がってくれた。
Hさんのほうがよっぽど面白い趣味をしていると思うが。

Hさんは歌も上手で、ある飲み会の二次会で和田アキ子の「古い日記」を突然歌い始めた。
「あの頃は〜」の歌い出しがあまりにも澄んでいて、その場にいた全員がお決まりのかけ声を口にするほどだった。

あるとき、会社でふっと甘やかで上品な香りが漂ってきた。
嗅いだ覚えのない、だけど学生の頃から馴染みのある香り。
例えるならそう、紅茶のアールグレイだ。

香りのあと現れたのは、私を呼ぶHさんだった。

それ以来、社内で紅茶の香りが漂うと、Hさんが来る前触れとなった。
香りで気配を知らせてくる人は、これまでの人生であの人だけだ。

常に神経を張りつめながらパソコンに向かう仕事だった身としては、Hさんの香りがするだけで束の間心が安らいだ。
ポットからこぼれた雫が波紋を描いて、広がるように。

あれは一体、どこの香水だったのだろう。
香水をたしなむほど大人ではなく、せいぜいラベンダーのルームスプレーやアロマオイルを楽しむ程度だった当時の私には、聞くのがはばかられた。

何年かして、Hさんは結婚した旦那さんの都合で引っ越すことになり、退職してしまった。
あの頃、度重なる失恋でひび割れていた私に変わらず接してくれた、数少ない人だった。

最後にやりとりしたのは、私も退職したのち息子を産んで、インストールしたてのLINEで出産報告をしたときだ。

息子の表情が面白いと送ったら、木のカラーボールにまみれた子どものアイコンで返信があり「きっとおおやまさんが感情豊かに子育てをしているからですね」と言ってくれたのを覚えている。

Hさんとはもう何もやりとりをしておらず、結局香りの正体も知らないままだ。

だけど、私はふとした瞬間にあの香りを思い出し、探していた。
Hさんの下の名前も、結婚したあとの名字も忘れてしまったというのに。

幼い息子の育児に悪戦苦闘していた時期から抜け出し、心の平穏が戻ってくると、素直な欲が出てきた。

ノートに何度か「紅茶の香りの香水が欲しい」と書くようになった頃、節目に夫が何か買ってくれることになった。

そうだ、あの香りを探しに行こう。
スマートフォンから検索して、最初に目星をつけたのは「ジョーマローン」の香水だった。

何度も通っている百貨店の一度も足を運んだことのない奥まった一角に、ジョーマローンの店舗はあった。
几帳面に並んだモノクロームの香水瓶やコスメを眺めているだけで夢見心地だった。

10歳ほど下だろうか、やや小柄で愛らしい顔立ちの店員さんが丁寧に案内をしてくれた。
まず試したのは、英国ブランドにふさわしい「アールグレー&キューカンバー」。

アールグレイの名を冠した香水ならばと期待して、マスクをずらしテスターを嗅ぐ。
違う。こんなさっぱりした香りではなかった。

キューカンバーというのは野菜のきゅうりのことで、英国のアフタヌーンティーについてくるきゅうりのサンドイッチをイメージしているらしい。
決して嫌いではないのだが、あの甘やかな香りは何度テスターを試しても嗅ぎ取れなかった。

その後も店員さんと話しながらさまざまな種類を試させてもらったが、Hさんの香りを彷彿させるものはなかった。

迷ったら買わない、それが私の買い物のルールだ。
憧れのブランドへの名残を残しつつ、店舗を後にした。

改めて探したところ、候補に上がった香水があった。
ちょうど妹と会う日に街に出たため、最寄りの店舗に行ってみた。

やはり初めて足を踏み入れたそのブランドは、コスメやスキンケア用品から食品まで扱っており、ジョーマローンとは異なる美意識と清潔感を放っていた。

テスターを試したところ、懐かしい香りに近いものを感じた。
砂糖を溶かした紅茶の香り。
もうひとつあったお茶の香りと比べて、妹は「こっちのほうが甘いんじゃない?」と的確な意見をくれた。

私が買ったのは、「SHIRO」のオードパルファン。
やはり「アールグレイ」だ。

SHIROのアールグレイが生まれたのは2018年。
2000年代に出会ったHさんの香りとは完全一致しない。

だけど、やっと見つけられた。
これは、私の香りだ。

あの頃のHさんよりも歳を重ねた今、気が向いたときにSHIROのアールグレイを一、二回、胸元に吹きつけるのが習慣になった。

Hさんの香りは、思い出のなかにしかない。
私は、私のアールグレイをまとっていこう。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

サポートをいただけましたら、同額を他のユーザーさんへのサポートに充てます。