創作エッセイ(29)群像劇は難しいのか?

小説を書き始めたばかりの時によく聞かされるのが、「一人称は本当は難しい」とか「キャラの書き分けが出来るまでは群像劇はやめろ」とかの、それっぽい指摘である。
実際には、これは「初心者は」とか「下手な人は」という言葉が頭に付くのだが、それを略してるのである。
今回は、そのうちの群像劇。本当に難しいのだろうか?
私の場合の創作術で語ってみよう。

群像劇を書く際の難点とは

 群像劇の最初の難点はキャラクターの書き分けである。具体的にはどういうことなのか。
 初心者の作品にありがちなのは、キャラクターの区別が付かないということ。会話の後に必ず「と誰それが言った。」を書かないと誰が言った台詞かわからない。
 まず第一に、彼らの人物像が「ヒーロー」「ヒロイン」「モブ1」「モブ2」といった記号から一つも深まっていない。区別するのは固有名詞だけ。
 これでは読者の心に各キャラクターの印象が残らない。頻繁に巻頭の登場人物一覧を観なければならず、それだけで読者は読む気を失うのだ。

キャラの書き分けとは

 群像劇の場合、各キャラクターには意味づけがある。
 例えば主要な人物の性格や来歴や弱点などを、履歴書のようにまとめるだけでなく、このキャラの個性を活かすために、対照的な性格や個性のキャラを配置する。アムロとシャアや、今期の大河ドラマの家康と秀吉みたいなものだ。
 特に長編小説の場合は物語を描きながら、物語の要請に応じてそういうキャラが生まれることも珍しくない。そのキャラクターの対立構造や対比構造そのものが、テーマを暗喩している場合も少なくない

キャラは書きながら深めていく

 自分の作品で例を挙げてみよう。「不死の宴」である。この物語は先の大戦中の昭和19年(1944年)から1990年代前半までの半世紀を舞台にした伝奇SF作品のシリーズである。
「第一部 終戦編」に出てくる守矢竜之介は、ミシャグチの眷属と呼ばれる古代から日本に伝わる西洋風に言えばヴァンパイアの一族を守り続ける一族である。姫巫女・美沙を守る竜之介に対し、その妹・みどりは心の中で、姫巫女に人生を捧げている一族の男達を哀れんでいる。竜之介達と対比するキャラクターとして配置されているのだ、物語の終盤に向けて竜之介とみどりの気持ちがどう変わるかも重要なファクターである。
 この作品では、他の主要キャラクター達も必ずそのようなドラマを背負っている。だからこそ、読者はページをたぐる手が止められなくなる。

読者に覚えさせる、忘れさせないために

 群像劇の場合、登場人物一覧表に戻る必要がないように、物語を語る工夫が必要だ。
 主要な人物の場合、初登場シーンで印象を刻みつける
 本当は一人物一エピソードが望ましい。映画「七人の侍」がいい例だろう。映画の尺や小説の枚数に制限がある場合は、それを分散する。彼らの登場シーンを分けるのだ。
 また、適当な頻度で物語に登場させる。そうしないと読者は忘れてしまうからだ。逆に、しっかりイメージを刻んだキャラの場合、「殺伐とした物語だけど、彼女が出てくると一服の清涼剤になる」的な立ち位置を獲得できる。
 第一部終戦編では、ラストで守矢みどりが実に良いシーンをさらっていくことになった。

やがてキャラに愛着が生まれる

 当初は、女っ気が足りないよな、と思って安易に出したキャラクター・守矢みどりだが、物語が進むにつれ、実に深い意味を持つキャラになってきた。
 今、私は「不死の宴 第三部」を書いているが、みどりの人生の終着点ももう考えてある。
 彼女だけでなくそのほかのキャラにも作者として愛着が湧いている。第一部で悪役だったキャラが、第三部では贖罪のようにキャラが深まっていたりする。人は成長するからなのだ。

外伝!

 私はあと数年の内にこのサーガを書き終える予定だが、そのときには七十歳に手が届いていそうだ。ただ、この物語世界に愛着ある登場人物を大勢生み出した。彼らの物語を書いていきたいのだ。
 マサチューセッツ州アイルズベリーのゲイリーや、ソ連に亡命したマリアなど第二部で生まれたキャラ達は、20世紀をどう生きたのか?
 現在、第三部で描いているキャラ達は、第四部世紀末編(構想中)のあとどう21世紀を迎えたのだろうか。その外伝を、命ある限り描いていこうと思う。
※それ以外の作品も当然書きまっせ(念のため)

(追記)
例に挙げた「不死の宴」は以下のリンクでお読みいただけます。Kindle unlitedの会員は無料です。
「不死の宴 第一部 終戦編」

「不死の宴 第二部 北米編」


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