映画レビュー(45)「PERFECT DAYS」

 

 現在公開中のヴィム・ベンダース作品。
 東京の公衆トイレ清掃員・平山(役所広司)の日常を描いている。平山の行動からは職人意識、プロ意識がまず伝わるのだが、寡黙なキャラクターからは、都会生活者の孤独感も伝わってくる。映画の雰囲気で脳裏をよぎったのは、ジャームッシュ監督の作品「パターソン」だ。小津安二郎の影響だろうか。

変わらぬ日常の中の新鮮さ

 同じ日々を繰り返す平山が、仕事の途中に見上げる公園の木々の木漏れ日。これが日常の中に潜むちょっと「素敵な瞬間」を象徴している。
 挨拶を交わす程度のすれ違う人々。若い頃の私は、「彼らにとって俺は風景の一部に過ぎない」とか「俺にとって彼らは風景の一部だ」というニヒルな感覚を持っていた。
 この作品の平山を通して、観客(私)は風景の一部である彼らにも私と同じような何かドラマがあるのだろうな、という感覚を抱く。一人であっても孤独ではないのだ。

あざとさを排した語り

 宣伝映画や公報映画だと、清掃員に対して利用者から「いつもありがとう」的な台詞を言わせたりするものだが、この作品では、名も知らぬ利用者とのちょっとしたやりとりで、それをうっすらと伝えるのみだ。この節度が心地よい。

こだわらない日常の潔さ

 平山を通して、物や人や地位に拘らない生き方を観る。辛い過去があったであろうが、今、現在をそうやって生きる平山に深く共感する自分に気づいた。
 実は、私にもうつで広告会社を辞めた後、どこにも再就職できずにバイク便の受託ライダーをやっていた時代がある。53歳のハゲ親父がコスプレまがいのライダースーツで配達をするのだ。まさに、この作品の平山と同じなのだが、その生活を通して、拘りがそぎ落とされて、再び小説を書き始めるモチベーションが湧いてきたのだった。
 うつが寛解したと感じたのは、バイクのミラー越しに観た空の青さに胸打たれた時だった。 作中で平山が度々、木の枝越しに空を見上げるシーンで、その感覚が蘇った

木漏れ日の暗喩

 エンドロールで、「木漏れ日」の説明がドイツ語で入る。いつも同じであるようで、いつも違う光景である木漏れ日。愛すべき日常のメタファである。
 折に触れ登場して、平山の視界に入るホームレスを田中泯が演じているが、彼は都会の中の木漏れ日の精霊なのかもしれない。もののけ姫のこだまのような。
(追記)
 このような感想を抱いていたのだが、新聞やネットでは、この作品に手厳しい声を上げる感想もある。不思議に思って読んでみると、その理由が分かった。プロデュースした東京トイレは日本財団が運営しているのだ。
 反権力・反政権であれば、どんな陳腐な作品であろうと芸術にしてしまう、例のトリエンナーレの界隈と同じバイアスが、ヴィム・べンダースの作品を駄作呼ばわりしているのだろうなと気づいて苦笑いを浮かべる俺がいました。

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