映画レビュー(16)「ジョーカー」(2019)と「タクシードライバー」(1976)

「ジョーカー」(2019)と「タクシードライバー」(1976)

(2019年 10月 22日 「読書記録゛(どくしょきろぐ)」掲載)
※作者の別サイト「小説指南コーチBLOG」(既に閉鎖)の記事を転載しています。




この記事はネタバレを含んでいるので映画を見てからお読みいただきたい。今回は長い。

先日、トッド・フィリップス監督作品「ジョーカー」を観た。「タクシー・ドライバー」との共通点を聞いていたので二つの作品を通して分析してみた。

 マーティン・スコセッシ監督作品「タクシードライバー」(1976)はカンヌのパルムドールを獲得した傑作である。
 帰国以来不眠症に悩むベトナム帰還兵トラヴィスはタクシーの夜間ドライバーとして日常を送り始める。当時は帰還兵の社会不適応が社会問題になっていて、そのような文脈で語られていたが、今観るとトラヴィスは間違いなく自閉症スペクトラム症という発達障害風に見える。当然社交性も低く友人との会話もちぐはぐである。好意を持った女性からは奇異に観られて避けられる始末。ついには逆恨みで彼女が働く選挙事務所の大統領候補を暗殺しようと考える。また、76年という時代からみると保守的なほど道徳的な男で、だまされて売春宿にいる少女(若き日のジョディ・フォスター)に家へ帰れと説教をするぐらい。
 大統領選挙の演説会で候補を撃とうとするがシークレットサービスに見咎められて逃げ出したトラヴィスは、それでは収まらず売春宿に行ってヒモの男ら3人を射殺する。自分も撃たれて、自殺しようとするがすでに撃ち尽くして弾は空だった。ニュースになったトラヴィスは世間からは英雄として扱われる。
 ラストシーン、NYの夜をタクシーで流すトラヴィスはやっぱり孤独だった。

 さて「ジョーカー」だ。老いた母と二人暮らしの主人公アーサーはストレスで突然笑い出す症状を持った精神障害者である。70年代のゴッサムシティーは貧富の格差が拡大し、社会の不満が臨界まで達していた。
 ピエロの仕事をしながらコメディアンを目指すアーサーは一般人とは笑いのセンスが異なり、笑えないコメディアンなのであった。不良少年たちに欲求不満解消の暴力をふるわれる。同僚が護身用に拳銃をくれるがそれを仕事先の小児科で床に落としたことで職場も首になる。その夜、地下鉄の車両で女性に絡んでいた三人のサラリーマンの前で笑いの発作が起き、その三人から暴力を振るわれて身を守るために拳銃で射殺してしまうのだ。不思議な高揚感を感じるアーサー。殺された三人は証券会社のエリートサラリーマンで、この事件は不満を抱く貧困層の快哉を呼ぶ。街頭でデモをする人々はピエロの仮面を被るようになった。まるでガイ・フォークスの仮面のように。
一方で妄想に囚われた母は病に倒れる。唯一の慰めは同じアパートに暮らす未亡人の女性だが、彼女との甘い思い出も自分の妄想であったことにアーサーは気づく。
 テレビのコメディショーで自分の映像が流れ、その笑えないコメディアンぶりにジョーカーとあだ名を付けられる。さらにはそれが話題になり番組に招待されることになる。
 当日、自分をはめて退職に追いやった同僚を殺すとアーサーは番組に向かう。番組内で、自分が犯人だと告白するアーサーに司会者は道徳ぶった言葉を言う。アーサーは「笑いのオチは私が決める。みんな主観に過ぎない。おまえが私を番組に呼んだのも、私を笑い物にする為なのだろう」とその欺瞞性をズバリと指摘して、その場で彼を射殺する。
 阿鼻叫喚のスタジオでカメラの前でステップを踏むアーサー。私(観客)は不謹慎にもこの射殺に快哉を叫んでいる自分の心に気づいた。

 この作品。決して後味のいいものではない。それは、大多数の観客(一般人)の心にある、障害者やマイノリティに対する「鈍感さ」「無知」さらには助けてやる支援してやるという上から目線の「傲慢さ」をジョーカーになってしまったアーサーの目を通してこれでもかとばかりに「体験」させるからである。
 そして観客に、このアーサーの体験や気持ちは決して特殊なものではなく、学校や職場で大なり小なり自分でも体験したことをカリカチュアライズしたものだと気づかせるのだ。
「タクシー・ドライバー」で主役のトラヴィスを演じたロバート・デ・ニーロが射殺される司会者を演じてるほか、鏡の前で踊るシーンになど「タクシードライバー」をトリビュートするシーンが随所にある。

「タクシードライバー」でトラヴィスが射殺した相手は街の底辺にたむろするチンピラだったが、アーサーが殺した相手は、反撃できない弱い相手とみるや居丈高に暴力を振るうホワイトカラーの会社員、社会の良識を装いながら売れないコメディアンを貶めて笑い物にしようとする芸能人職場の異分子を辞めさせる同僚暴力で子供を障害者にした母である。
 トラヴィスの殺した相手が解りやすい「悪人」であったため彼は簡単に英雄になった。アーサーは見えにくい「悪意の人」に抵抗したために社会の「悪役(ヴィラン)」になったのである。

 映画「タクシードライバー」は中二的な解釈をするファンが大多数だった。当時高校生の私もその一人。そんな後追い映画が雨後の竹の子のごとく湧いてきた。自閉症スペクトラム症という障害が「ベトナム帰還兵問題」によって隠されてしまったこともあるだろう。
「ジョーカー」にはそんな中二的な解釈を許さない苛烈さがある。先日の神戸の教師同士のいじめ事件を思い、社会が1976年より格段に病んでいるのだと感じる。

「ジョーカー」とは、大統領候補を射殺してしまったトラヴィスの、もう一つの「タクシー・ドライバー」なのである。

追伸
 舞台となったゴッサムシティが貧富の差が大きな世界になっているのは、この物語には「誰もが心に押し隠している暴力性が簡単に顕在化する社会」が必要なための舞台設定だ。
 だが、この作品を「貧困社会の告発」と称して反トランプ、反安倍晋三に結びつける「頭の悪い評論」が必ず出てくると思うなあ。まあ誰が言い出すかも想像着くけど(苦笑)

(追記 2023/08/08)
当時、DCコミックのキャラクター映画であるはずの本作品が、ここまでの問題提起を含んでいることに驚かされた。
BLOGの記事を書きながら、キャラの対比、各シーン・エピソードが練られまくっているのに、改めて気づかされ舌を巻いた。ここまで巧みに作られた作品に、「いい勉強した」と感じたのだった。

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