映画レビュー(9)「シン・レッド・ライン」

「シン・レッド・ライン」

(2004年 03月 28日 「読書記録゛(どくしょきろぐ)」掲載)
 俺的には、戦争映画の傑作である。


 太平洋戦争の激戦地ガダルカナルを舞台にしている。隊をたびたび離脱する二等兵ウィット(ジム・カヴィーゼル)。彼やウェルシュ曹長(ショーン・ペン)が所属するC中隊を率いるスタロス大尉は、部下たちの命を守ることに心をくだく人物。
 日本軍がたてこもる丘を出世のために占領したいトール中佐(ニック・ノルティ)に対し、スタロス大尉は無謀な前進を拒絶。その頃、隊は日本兵のトーチカを突き止めることに成功。丘攻略を目指して激しい攻撃を開始する…。といった内容のストーリーはある。が、この映画の描くのは戦闘でも戦略でもない。「戦う、殺す、殺される」という人間のいわば原罪に直面した兵卒たちが、ある者は心を病み、ある者は感覚を麻痺させてそれに慣れていくところを描いている。
 脱走常習者のウィットは冒頭、平和で美しいポリネシアの島に隠れている。が物語の中盤、彼が再び訪れたそのパラダイスは、争いで人々が互いに背を向け合っていた。つまり、「互いに争う」ということは人間の逃れられない「業」なのである。パラダイスなどないのだ。
 主人公と思われたウィットは終盤自ら選んだかのように戦死する。そして、心を病むほど弱くなく、心を麻痺させてしまうほど絶望しきれないウェルシュこそが、この映画の主役であることがわかる(わかる観客は少ないかもしれないけど)。
 彼は、この人間の「業」に絶望して死のうとはしない。心を麻痺させ眼をつぶろうともしない。その痛みを「痛み」として「しっかり見つめよう」とする。少なくとも、それが「痛み」として感じられるうちは人間に絶望しないぞ、という映画なのである。
 映画の中には、この「痛み」を感じなくなっている登場人物も出てくるから、そのテーマは明白でしょう。こんな作品を作って公開するからアメリカは映画大国なのである。
 ということで、同じ時期に公開された「プライベート・ライアン」と比較して、「つまらない」なんてほざいた連中は、自分の馬鹿さ加減を宣伝したようなもんですな。
 「プライベート・ライアン」は人間の「業」になど思いを馳せない「七人の侍(欧州戦線版)」なのだから、そもそも比較してはいけない作品なのだ。

 この作品のように内省的で哲学的な戦争映画といえば、シドニー・ポラックの「大反撃」(これも傑作)ぐらいである。「地獄の黙示録」も比較されやすいが、「黙示録」の方は、「これはただの戦争映画ではありません!」と作品全体が大声で喧伝しているようなところがあり、大人げないなと感じてしまう。
 また日本軍の描写が正確で、偏見が一切無いことも特筆できる。少なくとも一「兵卒」達は敵味方の区別無く、「被害者」なのだということがひしひしと伝わってくる。
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