心について

心とは何か。人間の心について、私が知っていることを記そうと思う。

まず、心と脳の関係について考えてみたい。心と脳の間に何らかの関係があることは確かである。だが、心と脳が同じものかどうか、という質問はナンセンスである。なぜならば、脳は目で見ることができるが、心を目で見ることはできないから。したがって、心と脳は同一の対象ではありえない。
 

意根

では、我々はどうやって心を知るのだろうか。これこそが現代の科学において等閑視されている問題である。我々が何かを知るためには、必ず感覚によらなければならない。たとえば、ビーカーの目盛りを読むためには視覚が必要であり、ブザーを聞くためには聴覚が必要である。しかし、聴覚によっても視覚によっても、心を知ることはできない。我々はどんな感覚によって自分の心を知るのだろうか。

我々が何かを知るとき、必ず感覚によらねばならないとすれば、我々は自分の心を知るためにも、何らかの感覚を用いているはずである。私は、自分が喜んでいるときには「自分は喜んでいる」と感じるし、自分が怒っているときには「自分は怒っている」と感じる。このように、人間には自分の心を感覚する機能が備わっており、これを仏教では意根と呼ぶ。

人間には自分自身の心の状態を感覚する機能が備わっている。これは現代の科学で見落とされていることである。心の状態に関する認識は所与のものではない。それ自体が一つの感覚であり、感覚であるがゆえに間違うことがありうる。人間には、自分の心の状態を正しく把握できない場合がある。

これはどんな感覚器官においても同様で、たとえば暗闇の中では、視覚は正常に機能せず、対象を正しく把握できない。大きな騒音の中では、聴覚は正常に機能しない。それと同じように、意根が正しく機能しないときには、人間は自分の心の状態を正しく把握できない。むしろ、そのような場合があるということが、意根が一種の感覚であることを証明しているとも言える。
 

では、意根とは何で、それはどこに存在しているのか。どのようなものなのか。

この質問に答えるのは容易ではない。なぜならば、我々は視覚がどこに存在するのかを知らないからである。視覚は目の中に存在するのかと言えば、そうではない。目があっても脳がなければ、ものを見ることはできないからである。では、視覚は脳の中にあるのかと言えば、やはり目がなければものは見えないのだから、脳の中にあるわけでもない。

およそ人間の能力とはそのようなものであり、どこかにあると言うことはできない。だから、意根がどこにどのように存在するのかが分からなかったとしても、それは他の感覚器官と同様であると言える。ゆえに、それを理由に意根は存在しないと言うことはできない。
 

能力

人間の能力はどこか一か所に存在するものではない。しかし現代の科学は、それを一か所に指定しようとする。これも誤りである。 

たとえば脳科学において、言語機能の局在問題というものがある。むかしブローカという人が、言語機能は脳の一部分にだけ存在し、そこが損傷すると人は言語機能を失う、と主張した。これが局在説である。一方でブローカに反対する人々は、言語機能は脳全体が担っていて、一部に局在するものではないと主張した。

これは疑似問題である。たとえば扇風機が動かなくなったときに、モーターに問題があるのか、電源コードに問題があるのか、それともシャフトに問題があるのか、様々な可能性がありうる。モーターが壊れても扇風機は動かないし、電源コードが断線していても動かなくなる。だからといって、扇風機の機能がモーターに局在しているとか、電源コードに局在しているとかいう議論はナンセンスである。実際にはそれらの部分が同時に働くことで、扇風機の機能は実現されている。

人間の機能もこれと同じである。脳の各部分、そして脳以外の人体の各部分、さらには外界の状況が同時に働いたときに、言語機能が実現される。それはどこか一か所に局在するものではないし、全体に分散しているわけでもない。それぞれの部分がそれぞれの役割を果たしているだけである。
 

脳と心

脳科学には位相連鎖という概念がある。ヘッブが提唱したもので、これはいいアイデアだと思う。脳内の現象を考えるときには、常に時間経過を気にしなければならない。というのも、脳が静止していることはなく、いつも動き続けているからである。

脳の機能を追おうとする場合、その時間経過をたどらなければならない。外界からの刺激が脳のどの経路を伝って、どのように広がってゆくのか、その全体像をとらえる必要がある。それを明らかにするためには、仮説が必要である。

この仮説は、でたらめに立てられるものではなく、根拠に基づいて推測されねばならない。根拠とは我々の心である。心と脳の間に関係があるとするならば、我々の心の状態を手掛かりにして、脳内で生じる現象を推測できるはずである。つまり脳内の現象は、人間の心理的な機能を実現するように生じていると考えられる。これを作業仮説として、神経情報の伝達経路をつかみ出すことができる。

詳しいことは「精神の本質」という論文に記してあるが、もう少し解説しよう。次は、言語と脳の関係について考えたい。
 

おばあさん細胞

おばあさん細胞の話を知っている人はいるだろうか。ある科学者が、被験者の脳内に、自分のおばあさんの顔を見たときにだけ反応する神経細胞を発見した。その細胞は、他の人の顔を見たときには全く反応せず、おばあさんの顔だけに特異的に反応したのだという。科学者はこれをおばあさん細胞と名付けた。

この話が意味することは何だろうか。おばあさん細胞はどのように機能しているのか。実際の状況を考えてみよう。まず、おばあさんの顔に反射した光が被験者の目に入り、網膜細胞を刺激する。その刺激が電気信号に変換されて大脳皮質へ送られ、様々な処理を経たのちに、おばあさん細胞が反応する。

それから彼は何をするだろうか。彼がおばあさんの家に遊びに来たのであれば、元気に挨拶をするだろう。病院にお見舞いに来たのであれば、花を渡すかもしれない。人間の脳内で起きる現象は全て、次にどんな行動をとるか、を決めるために生じている。おばあさん細胞が存在するのは、それによって彼の行動を決定するためである。
 

認識

心は存在しない。現実の世界を離れて心の世界があるわけではない。心は現実の中にあって、我々を動かしている。あるいは、我々の行動こそが心である。人間の心は人間の行動を決定するためにある。

オオカミは生の肉を好む。焼いた肉を食べるかどうかは知らないが、はじめは警戒するだろう。腐った肉は食べようとしない。彼らは肉の状態を認識する。ある肉がどのような状態であるかを認識したのちに、それを食べるべきかどうかを判断している。

すべての生き物は認識能力を持っている。植物は太陽の光を認識し、光の射すほうへ茎をのばそうとする。アメーバは化学物質の濃度の違いから食料の存在を嗅ぎ取り、その方向へ泳ぎ始める。生き物が外界を認識するのは、生きるためである。そして行動するためである。
 

おばあさん細胞が意味していることは、ものの認識は特異的なものだということだ。たとえば、リンゴとミカンを間違える人はいない。我々はリンゴとミカンを厳密に区別することができる。いったいその神経的な基盤はどこにあるのだろうか。なぜ我々は、異なるものを正確に区別できるのか。

ここで思い出すべきは、ものを区別するのは、行動を変えるためだということである。たとえば、電車で会った人がおばあさんだった場合と、学校の先生だった場合とで、我々がとる行動は全く異なるものになる。ここには入力と出力の関係がある。入力が認識で、出力が行動である。入力が異なれば、出力も異なる。

これは回路である。異なる信号が入力されたときに、異なる出力を出すように回路を設計しなければならない。そのときの一般的な条件は何か。
 

回路

一般的な条件は、二つの経路が交わらないことである。aという信号が入力されたときに、その信号が回路の中でたどる経路は、bという信号がたどる経路と、互いに異なっていなければならない。二つの信号は、決して同一の経路を通ってはならない。

aに対してAという出力が対応し、bに対してBという出力が対応するものとしよう。回路の中には、ここを通ればAという出力が生じ、ここを通ればBという出力が生じる、という地点が存在するはずである。その地点をそれぞれα、βとしよう。

そうすると、αを通る信号がそれまでにたどってきた経路は、βを通る信号がそれまでにたどってきた経路と、どの瞬間を切り取っても一致しないはずである。というのも、それらが一致する瞬間が一度でも存在するならば、その後の経路も一致しなければならないからである。その場合、両者の出力は一致してしまい、回路は失敗する。

これは「あみだくじ」を考えてもらうと分かりやすい。あみだくじは、入力と出力が一対一で対応するようになっている。異なる入り口を選べば、出口も異なるものになる。このとき、一度でも同じ線をたどってしまうと、同じ結果にたどり着くことはすぐに分かるだろう。縦の線でも横の線でも、同じ線を一度でも(同じ方向に)通ってしまったら、出口は同じものになる。ゆえに、入力に対して出力を異なるものにするためには、同じ経路をたどらせてはいけない。
 

これを人間の脳に置き換えてみよう。aというものを認識するときに脳内に生じる神経活動と、bというものを認識するときに脳内に生じる神経活動は、全く異なる経路をたどり、どの瞬間を切り取っても一致しない。これが、我々が認識しうるすべての事象に対して成り立つのである。

我々がものを識別するということは、それぞれのものに対して、我々が異なった行動をとりうる、ということである。実際には同じ行動をとることがあっても、異なった行動をとりうるのでなければ、それらを区別できているとは言えない。つまり、認識という入力に対して、異なる出力が対応しうるのでなければ、ものを認識できているとは言えない。ゆえに、我々が識別しうる限りのものについて、それらを認識するときの神経活動は、それぞれ異なる経路を通るはずだ、ということになる。

私の想像では、この経路のどこかにボトルネックがある。感覚器官から伝達され、大脳全体に広がるかに見えた神経活動は、やがて収束を始め、ある一つの細胞を通過した後で、出力に転じる。それがおばあさん細胞だったのではないか。つまり地点αである。

そしてこれは、おばあさんの顔に限らない。我々が識別しうるすべてのものごとについて、地点αが存在するのである。私はこれを意味ニューロンと名付けた。なぜならば、それは言葉の意味、概念に対応するニューロンだからである。これが言語脳科学の基礎である。
 

言葉の意味

意味ニューロンの活動は感覚器官に依存しない。たとえば犬の鳴き声を聞いたときに、我々はそれを犬だと思う。また犬の姿を見たときにも、それを犬だと思う。あるいは犬の体に触っただけで、それが犬だと分かる人もいるかもしれない。どんな感覚器官を通してであれ、ものの認識は成立しうる。ゆえに、どんな感覚器官から発せられた信号であっても、同一の意味ニューロンを発火させる必要がある。

おそらく、おばあさん細胞は意味ニューロンではない。というのも、この細胞は視覚刺激に対応するものだと考えられるからである。意味ニューロンには、感覚に依存しない普遍性がなければならない。
 

ここで、本当にそんなものがあるのか、と疑問に思う人がいるかもしれない。というのも、人間の認識はそんなにはっきりしたものではなく、ものを見間違えることもよくあるからである。ものの認識が、それほど厳密に行われていると考えなければならない理由はあるのだろうか。

そもそも私が意味ニューロンを仮定したのは、言葉のはたらきを明らかにするためだった。「犬」という言葉が、犬という生き物を意味しうるのは何故なのか。我々は犬を見たとき、これは犬だと認識する。一方、「犬」という文字を見たときにも、これは犬という生き物を意味しているのだな、と理解できる。この二種類の経験は、どのようにつながっているのだろう。

実際に犬を見たときに、それが犬だと認識する経験と、犬という文字を見たときに、それが犬のことだと理解する経験の間には、何らかの関係がなければならない。その関係とは、どちらの場合も同一のニューロンが発火しているということである。実際に犬を見たときにも、犬という文字を見たときにも、犬という概念に対応する意味ニューロンが発火している。それこそが、言葉の意味を保証しているのである。
 

意味ニューロンの存在を仮定すると、人間の言語活動と脳の関係について、様々な仮説を立てることができる。同時に人間の言語能力と、人間以外の動物の認識能力との関係についても、理解が深まるはずである。なぜならば、意味ニューロンは人間だけでなく、動物にも存在すると考えられるからである。

私はまだ十分にこの理論を発展させたわけではない。また、たとえ意味ニューロンが存在したとしても、ただちに言語機能を説明できるわけではない。なぜならば、意味ニューロンは単語に対応するものであり、文法構造については何も語らないからである。これについては、また別に検討する必要がある。
 

犬と意味ニューロン

動物における意味ニューロンのはたらきについて、少し説明しよう。

たとえば、犬に「待て」を教える場合を考えよう。犬は餌を見ると食べ始める。これが最初の状態である。彼は何度も訓練した後に、「待て」と指示されている間は、食べるのを我慢できるようになる。このとき犬の中で何が起きているのか。

はじめは、「餌」ニューロンと「食べる」ニューロンの間に興奮性の結合がある。犬が餌を認識すると「餌」ニューロンが発火し、それがシナプスを通って「食べる」ニューロンを発火させる。「食べる」ニューロンは運動野に信号を送り、彼は餌を食べ始める。

次に、繰り返し学習することで「待て」ニューロンが形成される。「待て」ニューロンは「食べる」ニューロンに対して抑制性の結合を形成するため、このニューロンが発火している間、犬は摂食行動を始められない。このようにして、犬は餌を我慢できるようになる。
 

刺激による条件付けの理論はどれも不正確である。学習の過程は意味ニューロンによって考えたほうが理解しやすい。しかし、新しい意味ニューロンが獲得される過程は説明が難しい。おそらく、それらはあらかじめ用意されていると考えるしかない。

また、意味ニューロンは名詞に対応するものだけでなく、動詞に対応するものも存在すると考えられる。それらは運動野とつながりを持つだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?