【小説】It Hurts(#2000字のホラー)
朝起きると、喉の奥に違和感があった。口をすすぐと、血と唾液に混じった"それ"が洗面台に落ちた。
親指ほどの大きさの"それ"は、ぎこちなくうごめいて、苦しんでいるようにも見える。
俺は鏡台にある熱線銃に手をかけたが、しばらく"それ"を眺めて、手を下ろした。洗面台の栓を下げて、蛇口を捻った。洗面台に5センチほど水を張ると、"それ"は身体を曲げ伸ばしして、いくらか安堵したようだった。やがて、浅い水槽になった洗面台を弱々しく泳ぎ始めた。
不完全で、矮小な"それ"は、歪な存在だった。
熱いコーヒーを淹れて、タバコをくわえた。頭が痛む。まだ少しアルコールが残っているみたいだった。
コーヒーを半分飲み下した頃、玄関のチャイムが鳴った。ドアスコープを覗くと、紙袋を抱えた友人が立っていた。鍵とチェーンを外して、招き入れる。
「大荷物じゃないか」
「そうでもないさ。必要なものだけだよ。お前、引っ越さないのか」
「事足りてるんだ」
友人は、もっといい場所に住めるだろ、と言いながら紙袋をダイニングテーブルに置いて、中身を取り出して並べた。
「お前に必要なものを、近所で買える範囲で揃えてきたんだ」
野菜、加工肉、レトルト食品、栄養サプリ、痛み止め、風景の写真集、詩集、小説。
「何か食って、何か読めよ」
友人が空になった紙袋を畳みながら言った。
「食ってるし、読んでるよ」
俺が答えると、友人はそう口答えするのが分かっていたかのように直ぐに言い返してきた。
「新しいものを食って、読めって言ってるんだ。まだお前の一部になっていないものをさ」
手を洗わせてくれと言って、洗面所へ消えていった友人の背中を見て、あいつは一体、俺に何を読ませようとしたのかと、テーブルの上の書籍に手をかけた。
友人が「おい」と大声をあげるのが聞こえた。しまった、と気付いて、駆け出した。
友人が、洗面台で不恰好に泳ぐ"それ"を睨みつけていて、そのままの表情で俺に向き直った。
「お前、何やってんだ」
緊張した声色で詰め寄る友人の目を見ながら、俺は答えに詰まった。俺の言葉を待たず、友人は更に険しい表情で続けた。
「なぜ直ぐに殺さない。何を考えてこんなことをしてるんだ。まるで、飼育しようとしてるみたいに見えるぞ」
「飼育というつもりはないけど、ただ、殺すのをやめたんだよ」
「何の為に、人の身体がこいつらを吐き出せるようになったと思ってる」
抱えきれない感情に、苛まれないためだ。そんなことは分かっている。だけど、俺はそれを殺したくなかった。
黙ったままでいると、友人は鏡台の熱線銃に手をかけた。
「俺が代わりに撃ってやる」
洗面台の水槽で不恰好に泳ぐ"それ"に、友人は銃口を向けた。
「おい、他人のものを殺すのは」
「……殺人に匹敵する重罪だ」
友人は、苦々しげに言って、銃を下ろした。
「だけどお前、分かっているのか、これを殺さずにおくとどうなるか」
「しばらく放っておけば、自然死するだろ」
「そうならなかった場合のことを言ってるんだ」
「死なずに成長すると、吐き出した人間を食って、窒息する。いずれにせよ、いなくなるものだ」
「お前は食われちまうんだぞ!」
「それだって、いいかなと思ったんだ」
友人はキッと俺を睨んで、こちらに熱線銃を向けると、引き金を引いた。焼け付くような熱さの光が発射され、俺の肩越しに、洗面所のドアを焼いた。
「それだっていいと、思ったんだよ」
俺は同じ言葉を繰り返した。
「俺はもう、自分から出てくるものを、殺したくはないんだ」
「お前は自分を苦しめたいのか」
友人は詰問するように言った。
「そんなことは思ってない。苦しみたくなんてないさ。でも俺は、こいつを焼いて無かったことには、もうしたくないんだよ。それが人間の情緒の進化だという価値観は、俺には合わないんだ」
「感傷と心中したいのか。生活を犠牲にしてまで」
「何の犠牲にもなりたくないんだ。俺は、これで大丈夫だよ」
友人は奥歯を噛み締めた表情のまま、俺と、洗面台で泳ぐ"それ"を交互に見て、「感傷的過ぎるんだ」と呟いて、部屋を出て行った。
友人が撃った洗面所のドアの焦げ跡を触ると、もうすっかり冷えて固まっていた。
俺は洗面台を覗き込み、不器用に泳ぐ"それ"を眺めた。
"それ"は、もうじきに死んでしまうようにも見えたし、いつか俺を飲み込んでしまうほどに育っていきそうにも見えた。
キッチンに戻り、タバコに火をつけて、深く煙を吸い込んだ。
そして、友人が置いていった詩集をめくり、感傷の輪郭をなぞった。
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