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カナガワン~光あらたに~

 わずか312万畳の安アパートの2階に、六匹の神奈川犬(ポメラニアン)が捨てられていた。部屋は糞尿ですえたにおいがした。体長は40万キロ。寒さで相模原毛と緑区毛が震えていた。飼い主はとうに家を去っていた。神奈川犬の多頭飼育崩壊だった。ナカクゥーン……と、オスの成文がさびしく鳴いた。
 本能のまま盛りあう神奈川犬に、何の罪があろうか。オスの成文は三浦半島の前足をメスの洋の平塚に押さえつけ、湯河原の後足を踏ん張ってセヤッー、セヤッーと吠えながら平塚を打ち付けていた。一二と文吾、岩田郎も、絡みつくように体を重ね合った。隙間なく互いの体を触れ合わせていた。箱根寄木細工だった。
 オスのエムはじっと、テレビの真っ暗な液晶を眺めていた。そこに現実があると思っていた。ずっと、大和首のあたりにぽっかりと空白があった。それはコッコシシュツキンで埋まるものではなかった。テレビに映る自分は、捨て神奈川犬だった。少年に拾われ、純一郎という名を授かった。少年は横須賀に誇りを持っていたのだ。およそ1560万坪の一軒家でミルクを飲み、少年に抱かれながら眠った。身長585キロメートルの少年には、ちょうどいい大きさだった。
 ドッグランではたくさんの神奈川犬が駆けまわっていた。少年の合図でエムは走り出した。うなりだす葉山町と小田原の浅殿筋。成文の平塚の動きは激しさを増した。海老名ジャンクションを起点とした市区町村筋が連動してはじめて、軽やかな運動は生まれるのだ。茅ケ崎腹を揺らして走る肥った神奈川犬を、ズッシと追い越した。ズッシ、ズッシと平塚が南足柄にぶつかった。ズッシ、ズッシ、ズッシ、ズッシ。海老名が躍動している。エムは宙を舞った。ズッシ。洋はうずくまったままだ。ズッシ。エムの横浜口はフリスビーをがっちりと捕らえ、成文と洋は同時に吠えた。チガサキッ! 東名高速道路(上り)は、新たな命を渋滞なしで運んでいく。
 獣のにおいは、別の獣を招いた。窓の外で両足を折り、月を見上げて雄たけびをあげていた。茨城犬だった。後ろからチーバくんも顔を出した。眼光は月あかりよりも鋭く光った。よう、また開発してやるよ。まただ。またこいつらだ。招かれざる客は、いやらしく笑った。窓のそばで、茨城犬は前戯なしに前足をエムの口に突っ込んだ。茨城犬はエムのみなとみらい舌を開発していた。茨城犬は舌フェチだったのだ。ランドマークタワーへの刺激にエムは身構えた。だが今日は違った。ゆっくりとなぞられたのは、タワーの周辺だった。味わったことのない感覚にエムは身をこわばらせた。いいじゃねえか、力抜けよ。開国してもよお、港が通れねえぞ? それはクイーンズスクエア。埋め立てられた快楽の通い路。女王の回路をピンポイントで責められ、全身が痺れた。コスモワールドの観覧車が猛烈に回転した。チーバくんはその様子をじっと見ていた。見る専だったのだ。気をよくした茨城犬は、ゆったりとしたテンポであの歌を歌い出した。

 まいごのまいごの こねこちゃん
 あなたのおうちは どこですか? 

 さしずめ、茨城犬警といったところか。茨城犬の凄テクとチーバくんの下ハモリに、エムの思考は乱されてしまう。また、開国してしまう。ペルリしてしまう。隠していた場所。あそこだけはいけない。よくない。恐れを、茨城犬は懇願と捉えた。おら、鳴け。ネコ。

 にゃんにゃんにゃにゃーん
 にゃんにゃんにゃにゃーん
 ないてばかりいる Lonely Pussy Cat……!

 快楽の赤レンガ倉庫は、正確に貫かれた。170年分のペルリがどっと襲ってきて、エムはガクガクと震えた。大磯ショートビーチは、大磯ロングビーチになっていた。その長い長いペルリの果て。枯れた心の宮ヶ瀬ダム。今夜は終わらないぜ? とささやく茨城犬。見抜きするチーバくん。交尾を続ける成文たち。神奈川犬は神奈川犬を産み、成文は新しい成文を産む。それがセンキョなのか。虚しく殖えて、どうするんだ。ぶっ壊さないといけない。生き別れの姉に会いたい。スウェーデンのヴェストラジョータランド犬。おっきくてあかるい、フラットコーテッドレトリバー。だがこの部屋は寒い。寒川だ。ぼくはからっぽだ。畜生。ザマザマと涙すら流れない虚ろな中原区目。むなしく響くニシクゥーン。すがるように見上げた空に、一筋の光が差した。
 天にまします、黒岩県知事。
 はじめにことばがあった。答弁があった。おしゃれなかわいい、神奈川犬があった。その未来が、暗いものであってはならない。身長26兆メートルの光の巨人たる黒岩県知事は、笛を吹いた。その金属の笛は、神奈川犬のための、福音だった。
――町田よ、あれ。
 テレビの液晶は、粉々に砕け散った。相模と横浜の間、大和首の上に、新たな犬の輪郭が象られた。かつてあったもの、そしてこれからあり続ける確かな証。それが、町田。エムは、茨城犬にアシガラッと噛みつき、久方ぶりに咆哮した。エブリ犬民、ゲッティング、アウト。お茶の間におもいッきり馴染む声を、掴めた気がした。救わなきゃ。この星が神奈川犬に埋め尽くされる前に。エムは、窓を割った。町田は、ほどなくして綿毛のような毛で覆われるだろう。その毛先はあたたかく、海に飛び込んだエムをやさしく包むだろう。空白は、必ず埋まる。ワンちゃんには、奇跡がワンチャン起こることが望ましいのだから。

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