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「さみしさ」の正体

「さみしい」という感情の出どころ


ひとりの時間を「さみしい」と思ったことはほとんどない。

50歳を過ぎてから、ますますひとりが快適になった。

ありがたいことに日々仕事があるし、なければないで仕事を作り出す。
楽しみも仕事と同じで、「何かおもしろいことないかな」と自らを楽しませることを探し出す。

そもそもが誰かに楽しませてもらおう思ってない。
ましてや空いた時間を埋めるために人に会うこともない。

「さみしい」とか「ひとりだと何していいかわからない」という人の多くは、それを埋める作業をどこか他者に依存している。
だからいつまでたっても「さみしい」から解放されない。
これが「さみしさ」の正体なんだと思う。

自分で埋められる「さみしい」と埋められない「さみしい」


もちろん私だって生身の人間なので、さみしいことだってある。
でもそれは「ひとりでいる」空間や時間ではなく、
もっと別のところに感じる。

例えば、これから一生、自分の血を分けた子孫を見ることはできないと思うとちょっと「さみしい」。

だが「さみしい」を感じるとほぼ同時に、
「自分が選んだことなんだから」と妙に納得してしまう。
人と比べるから、そういう感情が生まれるわけで、
自分を主軸にすれば、すぐ冷静になる。
「わたしはわたし」なんだからと。

どうしようもなく「さみしい」と思うのはただ一つ。
敬愛する父がこの世にいないことだ。

「今ここに父がいてくれたら」と数えきれないほど思い、
その度に声を殺して泣いた。
そんな時は父の血が流れている自分のカラダを自分で抱きしめる。
「この中に父が生きている」と言い聞かせながら。

それでも「さみしい」は拭いきれない。
大切な人の死によって生まれた「さみしい」は、
自分はもちろん他者でも埋めることはできない。
これは墓場まで持っていく「さみしい」なんだろう。

ただ普段から、自分で自分を楽しませることを知っていると、
「さみしい」でがんじがらめにならずにすむ。
多分、私は無意識のうちにそのトレーニングをしてきたんだと思う。
ひとりっこの性なのかもしれない。

自分で埋められる「さみしい」は、人に埋めてもらおうとせず、
自分で埋めるクセをつけておくといい。
「さみしい」を感じにくくなるから。
そしてそれが「楽しい」に変わっていく。

◇◇◇◇◇
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