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流れ星を詠めるか

2017年8月句会に投じられてきた俳句。

星流れ夜より昏き森が在る

句会前、これが送られてきたときは、句会を営んできてよかったとおもいました。Facebookのグループでやっていて、遠隔の同人も多いので、わたしが最初に投句を集めて、それらを並べてタイムラインにポストするというやり方をする。だから、わたしは事前にみんなの俳句を読める。

何がどういいのか。
兼題に流れ星が出たときに、これはむずかしいとみんなにいいました。春爛漫や星月夜、遠花火とかと同じ。むずかしい。イメージがありすぎる。これまでにいろんなことを言われたであろう(実際は敬遠されたりするので実はあまり詠まれてないのかもしれないけど)、そう思いこんでしまって、この5音にあとの12音が太刀打ちできない。

この一席句はそういう最強の季語の一つ、流れ星に対して夜より昏い森を発見して、拮抗した。夜も森も単独使いなので一見、抽象的なようですが、森は「夜より昏い」森という形容によって具象になり、夜は「星が流れた」夜として具体化している。
形容詞は名詞を殺すので要注意ね、というのもよく指摘するところですが、この「昏い」はむしろ森に命を吹き込んだ。
上五は流れ星、流星や、星流る、などもありえますが、星流れの連用が正しいでしょう。夜を修飾するために切れを薄くしておくわけです。ここの選び方も作者本人は、じゅうぶんに考えたと言ってましたが、どんだけ手練れになってきたんだと。
作者は俳号、淡耽(たんたん)と名乗る、俳句を初めてまだ3年にも満たない、編集を仕事にする御仁。ふだん言葉を使っているとはいえ、この勘所の良さは驚嘆に値します。

この句を統御しているのは森や夜や星などの名詞ではなく、形容詞でもなく、「より」ですね。比較です。散文において、夜と(夜の)森はどっちが暗いと思う?という設問は成立しえない。でも、韻文ではそれが成立する、いやそれが詩の面白みだといっていい。
動作として考えていっても実に精緻な描写です。流れ星は一瞬なので、しばらく余韻に浸ったとしても、もう一つ来るかなと期待したとしても、しばらくしたら視線は降ろしていくわけですね。そこには昏い森が在った。夜よりも黒い、夜のほうがまだ明るいぞと思った。

〆になっている「在る」も使うのはとても難しい、小賢しい変換です。でも、ここはひらがなではないでしょう。森の存在感が「在る」と書かせた。たとえば、流星を見ない夜、新月の夜にこの「夜より昏い森」は在るんだろうかと考える。ないんですね。流れ星を見た夜にのみ出現するのです。これを「季語が動かない」といいます。取り合わせ句における最大の賛辞です。

流星のように降りかかった、モーツァルトのように天から降ってきたからただ書き留めた、そんな天衣無縫さを感じます。

西東三鬼の出世作、

水枕ガバリと寒い海がある

を彷彿とさせる傑作と思います。

一つだけ、難というほどでもないのですが、たぶん「昏い森」としたほうがいい。口語として揃うので。
もし文語として揃えるなら、上五を切って、

流星や夜より昏き鈴ヶ森

のような固有名詞止めが締まります。

□□□□■/□□□□□□□→□□□□□

上五の「や」切れ、中七修飾節、体言止めという王道。「古池や」ですね。
こっちの語法であってもわたしは特選でした。

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