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日本人に生まれたら、俳句をお詠み(前編)

俳句は誰でも詠めます。日本人なら誰でもです。

誰でも詠めるんですが、コツは知っておきたい。知っておくと、自分の中に生まれたイメージを俳句の形にしてエクスポートした時に、思ったことと出したこととが1:1になります。さらに弄って遊ぶことができて、そのうち1が1.1で出てきちゃったりする。せいぜい0.7くらいのモチーフでも詠み方がイカしてると0.9まで押し上げられ、もしかして1になって出てくる。あるいは、内部がさして悩んでも考えてもいないのに、いきなり外部が生じる。つまりサクッと詠めてしまったりする。創作の理想。モーツァルトかと。こんなことが起こ(りう)るんだから、そのコツを知っておかない手はない。

以下に、この世でもっともシャープかつロジカルな俳句入門をお送りします。一瞬というわけにはいかないけど、ゆっくり読んでも20分ほどでしょうか。読み終えた時に世界がちがって見えます。世界が俳句仕様で見えてくる。そうしたらもう、句作はすぐそこです。

【俳句って?】
みなさんにとって俳句は、小学校中学校の時に習って以来でしょうか?
おそらく覚えておられるのは、五七五と季語でつくるという二点だとおもいます。
まず、それで正解です。
これに切れ字を加味すると、理解の80%以上は確保できたと思って大丈夫です。
切れ字とは、や、かな、ぞ、よ、か、けり、なり、などの詠嘆(感動)を表す言葉です。現代でもよく使われるのは「や」と「かな」です。

古池や蛙とびこむ水の音
の「や」。

をりとりてはらりとおもきすすきかな
の「かな」です。

なんか古めかしいととっさに感じる人も多いと思いますが、眼目(感動点)を明確にして、そこに間(スペース)を作るという研ぎ澄まされた技法で、便利でまとまるし、理解もされやすいですし、なによりそのお約束を使うとそこにスペースが生まれて、自分の言いたいことを言いやすくなります。サッカーのスペースの概念と似ています。切れ字はさしづめ優れたボールキープのような、相手(読み手)をひきつけておく力と思ってください。手品師の客の目線を惹きつける方、ミスディレクション側の手です。使わない手はありません。使わないでいると手品がバレます(笑)。


季語も、五七五を守るのも、この切れ字も、要は形式美、様式美であり、型もなにもなく武道もスポーツも音楽も出来ないのと一緒で、季語、五七五、切れ字を用いると、だれでも俳句ができます。
むしろ、だれでもが詠めるように、そのやり方が残ってきた、そう考えるほうがいいと思います。伝統という水に自分を浸して、さあて何があぶり出るかという遊び、嗜みだといってもいいかもしれません。
季語、五七五(定型)、切れ字、この3つで俳句に関する基本のお約束は全部ですが、実はもっとも俳句っぽいのはこの「切れ」です。言葉が5音の場合など、切れ字を用いなくてもそこには切れがあると見なしますので、総じて「切れ」と呼びますが、これがあるかないかで、川柳との分岐があるといっていいくらい、重要なものです(学校では季語がない五七五を川柳と習いますが、私はちがうと思っています)。
では、どうスマートに、最短時間で切れを理解するか。おそらく構造として知るのが一番よさそうなので、その「形」から入ります。


◆切れ字の位置を確認しましょう。基本はこの3つ。中七に切れ字を使えるようになるとぐっとバリエーションが増えます。(最初の5音を上五、次の7音を中七、最後の5音を下五と言います)
□□□□■ □□□□□□□ □□□□□
□□□□□ □□□□□□■ □□□□□
□□□□□ □□□□□□□ □□□■■

◆今度は切れ字ではなくて、意味的な切れの位置を確認します。基本はこの3つ。切れ字がなくても眼目の在り処から考えると切れの位置が特定できます。
□□□□□/□□□□□□□ □□□□□
□□□□□ □□□□□□□/□□□□□
□□□□□ □□□□□□□ □□□□□/

◆塊になっている句(上五、中七、下五)の修飾関係を単純化すると、おおよそこんなふうに分類できます。
□□□□□/□□□□□□□→□□□□□
□□□□□/□□□□□□□・□□□□□
□□□□□→□□□□□□□/□□□□□
□□□□□・□□□□□□□/□□□□□
□□□□□→□□□□□□□→□□□□□/
□□□□□→□□□□□□□・□□□□□/
□□□□□・□□□□□□□→□□□□□/
□□□□□・□□□□□□□・□□□□□/

どうですか。イメージできますでしょうか?
これでイメージできたら、もう達人です。できなくていいです。まず、じっと眺めてみて、だいたいこんな「形」なんだなと記号的理解をしてください。やっぱり、短いは短いので、こんなものなんです。
ここに言葉が入ってくると、単純にはいかなくなるのですが、いつでもここに戻って考える。そうすると言葉が有機的に、あるいは効率的に、あるいはもっとも情緒たっぷりに、自然と組み合わさってくれます。

古今の名句から、いくつか例句を入れてみましょう。
ぐっとイメージが出てきて、もしや自分もなんか名句が作れるんじゃないか、というような気がしてきます。
□□□□■ □□□□□□□ □□□□□
閑かさや岩に染み入る蝉の声
夏草や兵者どもが夢のあと
古池や蛙飛び込む水の音
五月雨や大河を前に家二軒
菜の花や月は東に日は西に

そうそうたる名句が並びますね。基本中の基本だとわかります。芭蕉と蕪村は特にこの形が好きだったようにも思えます。


□□□□□ □□□□□□■ □□□□□
□□□□□ □□□□□■■ □□□□□
五月雨を振り残してや光堂
山門を出れば日本ぞ茶摘うた
凩の果はありけり海の音
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

中七に切れ字を持ってこれるようになると自在性が増します。一番かっこいいかもしれません。この型は忘れやすいのでつねに意識しておくといいです。


□□□□□ □□□□□□□ □□□■■
赤い椿白い椿と落ちにけり

をりとりてはらりとおもきすゝきかな
春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな
涼風(すずかぜ)の曲がりくねって来たりけり
生涯を恋にかけたる桜かな

上五の「や」切れと並んで、もっとも多い形。最後がすっと抜ける感じで邪魔くさくない。迷いがない。

次は切れ字はないけど切れてるものの例句。
□□□□□/□□□□□□□ □□□□□
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
牡丹散(ちり)て打かさなりぬ二三片
夕桜うしろ姿の木もありて

切れ字はなくても、上五と中七の間で切れてます。


□□□□□ □□□□□□□/□□□□□
五月雨を集めてはやし最上川
盆すぎて宵闇くらし虫の声

中七と下五のあいだで切れているものです。上五で切る場合が前調子なのに比べて、あとからぐっと惹きつけて締める後調子な感じになります。


□□□□□ □□□□□□□ □□□□□/
鶏頭の十四五本もありぬべし
露の世は露の世ながらさりながら
白牡丹といふといへども紅ほのか
冬菊のまとふはおのがひかりのみ

途中で切らず、最後で切る。すっきりとワンテーマで詠み切るものです。


さらにブレイクダウンします。
□□□□□/□□□□□□□→□□□□□
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
□□□□□/□□□□□□□・□□□□□
痩蛙まけるな一茶これにあり

上五で切れたあとの、七五の関係が、修飾・被修飾になってるか、並立的かのちがいです。


□□□□□→□□□□□□□/□□□□□
五月雨を集めてはやし最上川
□□□□□・□□□□□□□/□□□□□
盆すぎて宵闇くらし虫の声

「→」と「・」の感触がつかめるでしょうか。


□□□□□→□□□□□□□→□□□□□/
冬菊のまとふはおのがひかりのみ
涼風(すずかぜ)の曲がりくねって来たりけり
□□□□□・□□□□□□□→□□□□□/
牡丹散(ちり)て打かさなりぬ二三片
をりとりてはらりとおもきすすきかな

切れの構造、もう一つやっつけます。中七の途中に切れがあるという、ちょっと高度なもの。
万緑の中や吾子の歯生え初むる
麦粥を食うやいのちの精一杯
やぶ入りの寝るやひとりの親の側
閻王の口や牡丹を吐かんとす

などがそうです。記号にするとこうなります。
□□□□□→□□■ □□□□→□□□□□
このパターンにも切れ字がないものがあります。
一月の川一月の谷の中
白梅のあと紅梅の深空(みそら)あり
□□□□□→□□/□□□□□→□□□□□
百代の過客しんがりに猫の子も
□□□□□→□□□/□□□□→□□□□□
これはこれはとばかり花の吉野山
□□□□□→□□□□/□□□→□□□□□

中七の終わりに切れ字を持ってこれるようになると自在性が増すと言いましたが、さらにその途中で切れるようになるとほぼ切れのすべてを学べたかっこうになります。

この前編でもう8割の理解に達します。本当です。型がわかれば、あとは詠むのみ。なんですが、俳句で大事なことは人に読んでもらう、鑑賞してもらうことです。子規はなんだか文学に高めたい一心で、一人でうんうん唸って捻り出すことをよしとしていましたが、それでも仲間や弟子たちとああじゃないこうじゃないとやっていた。私は句会あっての俳句だと思います。現代の大喜利に近い。詠んだら、読んでもらう。笑ってもらう。感心してもらう。貶されると頭にくるけど、そこで、じゃあこうかああかと推敲できると確実に8割を超えていけます。きっとです。




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