秋は晴れ間に思うこと。

 中学生の頃に八重洲ブックセンターで立ち読みしたJマニアがキッカケでV6のファンになった。あれから多くの時間が流れた。飲酒も喫煙も知らなかったあの頃の私とは何もかも違う今の私。酒に浸された25メートルプールで溺れながら、わずかな息継ぎの合間に煙草を吸う。そしてV6は解散を発表した。

 KOHHが楽曲を提供したV6の新曲『雨』はとんでもない名曲だ。最後の最後にこんな素晴らしい曲を出すとは心憎さと、少しばかりの寂しさを感じる。MV含めて大変素晴らしいので是非とも。

 V6の中でも美食家で知られる長野博の代表作である96年『ウルトラマンティガ』は第29回『星雲賞』映画演劇部門・メディア部門を日本の特撮テレビドラマとして初めて受賞した傑作である。数日前、特に理由も無く寝しなに第25話「悪魔の審判」を観た。私は昔からキリエロイド(25話ではキリエロイドⅡであるが)が好きなのだ。夜のビル群を舞台としたティガとキリエロイドの闘いは正に『ウルトラマンティガ』屈指の名勝負である。セットのジオラマがまた堪らなく素晴らしいのだ。特撮のジオラマ好きにとってみれば、ウルトラセブン第5話「消された時間」でのセブンとビラ星人が闘う、赤い鳥居の並ぶ野原も印象深いものがある。小さい頃、図書館でウルトラマンの本を読んでいた時も、怪獣やウルトラマンよりもその背後に小さく並ぶジオラマばかり眺めていた。今もそれは変わらない。

 クラッシュフェチというものがある。ネットにはこのような説明が出てくる。「オブジェクトが押しつぶされる、または自分で押しつぶされることを観察することに性的興奮が関連するフェチおよびパラフィリアです」正にこの説明の如く、奇麗な女性が様々なものを踏みつけて壊していく動画が探せばわんさか出てくる。生きている虫を踏みつけるイノセントクラッシュから、食べ物を踏みつけてグチャグチャにするフードクラッシュなど多くの派生形がある。その中で鉄道模型やジオラマを踏みつけて破壊するジオラマクラッシュと呼ばれる動画を一時期の私はハマってよく見ていた。怪しい個人サイトからDVDを買っていた事もある。大抵はエッチな衣装を着た女性がジオラマやNゲージをハイヒールで踏みつけて破壊するという内容だ。私はそれらに性的興奮は覚えないのだが、ジオラマや鉄道模型が無残に破壊されていく様には倒錯的なワクワクを覚える。

 クラッシュフェチはマゾヒズムの1種だろう。踏みつけられ破壊されるオブジェクトに自身を転移してその破壊の歓びに身を浸す。無残にも内蔵をまき散らせて潰されるカエルや、ぐちゃぐちゃになる鉄道模型も、全ては鑑賞者の代理であり、破壊という最も高位なマゾ的受容のオルタナティブである。ここに人間の奥底に秘めたるタナトスが性的変換により現出する様を見ることが出来る。

 私からしてみれば、黎明期のYouTuber達がこぞってアップしていた、何かを壊す系の動画もクラッシュフェチの1つである。壊されるオブジェクトが高価であればあるほどに、その破壊に甘美的な喜びを見出す。そのような一面があったのでは無いかと思う。もちろん、炎上狙いの再生数稼ぎという面もあるが。

 「壊す者と護る者」とは仮面ライダークウガのOPでも印象的な歌詞であるが、最近私の周りで『仮面ライダークウガ』が極小的なブームが起きている。『ウルトラマンティガ』から4年後の2000年に放送開始された、今も続く平成~令和仮面ライダーシリーズの1作目。私も当然の様に好きな作品である。超古代語版(グロンギ語に対訳のついているバージョン)でも見返している。そのお陰で「ボソギデジャス」が「殺してやる」であると知っている。「バルバ  ギビギダダ ゴラゲド パラダ ガギダギ ロゴザ」とは「きにいった おまえと はまた あいたい ものだ」である。

 
 日下三蔵・小山正『越境する本格ミステリ―映画・TV・漫画・ゲームに潜む本格を探せ!』でも仮面ライダークウガは紹介されている。確か第36話『錯綜』37話『接近』が紹介されていた様な気がする。(現在手元に無いので間違っていたら大変申し訳ない)要はゴ・ザザル・バのゲゲルが本格ミステリ的なという紹介だったと思う。例の「動く箱」にまつわるやつね。ミステリ風にいうとハウダニットの1種という事になるのだろうか?

 『仮面ライダークウガ』は後半になるにつけ怪人達が人間を殺す手順が複雑になっていく。なので、まず怪人たちがどのような法則で殺人をしているのかを解明する必要がある。そうして解明した後、次の殺人を阻止する為にクウガと警察は先回りをするのだ。しかしながら事はさらに厄介で、後半の怪人達はみんな強いのだ。それは単純な強さもさることながら倒した際の爆発の被害もとんでもない。すなわちその爆発も考慮に入れなくてはいけない。こうなると『仮面ライダークウガ』の怪人を倒すまでの手順は1・殺人の法則の解明。2・倒す際の爆発を考慮した場所の確保。3・クウガによる戦闘と確保した場所への誘導。と、なんとも骨の折れるステップを踏まなくてならない。いやはや・・・。これを朝の8時に毎週やっていたのかと思うと私も一条刑事と同じ気持ちである。「こんな寄り道はさせたくなかった。君には冒険だけしていてほしかった」

 今、見直してみると『仮面ライダークウガ』が素晴らしい作品であるのには変わりないが、気になる点もある。例えば多くの指摘があるようにグロンギのゲゲルとは民族虐殺と通じている。その中で「揺るがない正義」である五代雄介と警察による抵抗としての「暴力」が描かれる。改めて見直してみるとその「揺るがない正義」に息苦しさを覚えている自分がいた。少し前に『機龍警察 白骨街道』を読み、ミャンマーの民族浄化の問題に触れたからだろうか。五代雄介が人柱に見えてしかたがなかった。そしてそれに耐えるためには?暴力の快楽に身を浸すしかないのか?そうした身体の傘下で私たちは「都合よく怯える現実の加害者」ではないのだろうか。

 『仮面ライダークウガ』で最も議論の的になる「戦慄/愛憎」と名付けられた34話と35話。しかしその暴力の問題に分け入る前にどうしてもこの台詞が頭に響く。49話『雄介』はみのり先生の台詞だ。「そうだねえ。でもね、4号は本当はいちゃいけないって、先生は思ってるの。」4号とは仮面ライダークウガの作中での呼称である。そして孤独の別名でもある。そんな風に思う。

 石ノ森章太郎は異形の者たちの孤独をテーマに『仮面ライダー』を描いた。それは『サンボーグ009』にも通じる。『サイボーグ009』の中でも短編『結晶時間』は009こと島村ジョーの特殊能力である加速装置の故障により、自分だけが違う時間に取り残された一夜を描いた傑作である。自分以外の世界が1秒すら永遠に感じるほどのスローモーションになってしまう。自分だけが加速した時間に生きている。その実感はヒーローである島村ジョーですら耐えられない孤独だ。紙が一瞬にして燃え上がるまでに加速した時間では、止まっている人々に触れる事すら叶わない。目の前に佇む愛するフランソワーズ(サイボーグ003)を抱きしめることすら、その手にすら、触れる事の出来ない孤独だ。全てが静止した世界で島村ジョーはこのように呟く。「しっかりしろ。独りには子供の頃から慣れてるはずじゃないか」そして「ずっと一人だったはずだ」余りにも哀しい孤独だ。飛行機が空で止まったままの夜に。

 この孤独の顛末は是非とも読んで欲しいので詳述は避けるが、ラストシーンの抗う事の出来ない異形としての身体に、それでも宿る、私たちと同じ様な心の喜び。それが胸を打つのは人間が孤独に耐えることの出来ない生き物であると島村ジョーの後ろ姿が教えてくれるからだろう。


 全くもって秋である。皆さんお身体ご自愛下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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