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マスクを民族衣装にするの? 隣組主権の代償“終わりなき総力戦”

  昨日、3月13日からマスク着用は「個人の判断」となりましたね(前からそのはずだろって正論はやめてください)つまり、自由! これで「マスク生活」ともおさらば・・・となるわけもなく、日本社会では依然としてマスク着用が“マナー”として継続されています。薄々勘づいてはいたけど、やっぱ、今後もマスク生活は続きそう。このまま民族衣装にでもするつもりなのでしょうか? 

 わたしはコロナ以前からリモートワークをしていた人間なので買い物や対面での打ち合わせ、プライベート以外ではマスクをつける機会もありません。なので、相手方のルールに合わせる(着用を求められている場所では、迷わず着用する)という方針に粛々と徹しているのですが、妻は客商売というのもあって「今後もマスク着用」との通達が本社から正式にあったそうです。まぁ、会社側には業務時の服装を指定する権限があるのでいいと思うんですが、会社が命令するならマスク支給とかはしないのかなぁ…?

本当にまだみんなマスクが必要だと思ってるの?

 でも、実際のところ「マスク着用」って、どれくらいの人が支持しているんでしょうか? Twitterやらでマスク着用を血眼で訴える変な人達は悪目立ちしているけど、実際のところ「バカバカしい」と思ってる人が大多数じゃないでしょうか。

 率直に言って、未だにコロナ感染を恐れて、手洗い・消毒・マスク交換に目を血走らせている人って、あまり現実的な想定ではなくなっているように思います。店舗前にある検温器・消毒液を素通りする人も多いし、コロナ禍初期には監視していた店員たちも今は見て見ぬふり。

 国民は個人レベルではとっくのとうにコロナリスクを受け容れる方向に舵を切っているようなのですが、一方で社会単位となると事情は一転。挙国一致で戦う「総力戦」体制は建前上、なんとなく残っている感じ。“マスク着用”と“検温器・消毒液の設置”という「とりあえず、一応やってます」感のあるお付き合い的な総力戦ポーズだけが、いつ終わるともしれないままに温存されていますよね。


いるかどうかもわからない「隣組」が主権を握った国

 でも、それもこれも、結局、日本の危機対応が“自粛頼り”だったからじゃないでしょうか。もともとが「お願い」ベースの個人の判断だったわけですが、実際のところ国民は「自粛警察」を恐れた同調圧力によってマスクを半ば強制されていたわけです。だって実際のところ、マスクしていないとスーパーにも、図書館にも入れないわけです。
 自粛要請は「憲法上の自由を保証するために権利は制限できない(=国民の自己判断に頼るしかない)」という建付けでしたが、国民は(コロナ禍初期を除いて)「自分の判断」でマスクをしていたわけではないわけです。だから、今更「今日から個人の判断」とか、経緯をガン無視したアナウンスが聞き流されてしまうんですよね。

 だから、もう「お願いしません」と言われても、やめるキッカケなんかありませんよね。もともと「お願い」を聞いていたわけではなくて、“同調圧力(空気)に従っていた”だけなんですから。
 議会制定法の根拠に基づいた「マスク強制」⇒「解除」とは、まるで意味合いが異なるわけです。大日本帝国では第2次世界大戦の「総力戦」を命令する主体がいて、彼らが天皇陛下に一時的に主権をお返しすることで終戦の御聖断が下り、終戦が決定しました。でも、今の日本国には「総力戦」を命令した主体がいない。だから、だれも「終戦」を宣言できない。
 そこに「主権者(から委任された代表者)」という判断主体がないんです。いや、主体はいたけど、誰も観測できな存在だった。コロナにおいてずっと実質的な判断を担ってきた主権者は、いるかどうかもわからない「隣組(自粛警察=変な人)」だったんです。

だから、マスクが外せない。隣組がいきなり「とんとんとんからり」と玄関のドアを開けてきて、マスクを外してる自分を見たらどう思うか? 
わからないから「とりあえず、マスクをつけておこう」「とりあえず、検温器はおいておこう」「とりあえず消毒機も撤去しないでおこう」となってしまっているわけです。

責任放棄のツケと終わらない総力戦体制

 日本は立法と行政が融合した「議院内閣制」を採用している国です。比例性の低い議院内閣制は、決定に優れ立法スピードが非常に早い。だから、マスクにしろ何にしろ、急務な対応があるというなら、与党の責任でもって緊急事態に対応する時限立法なりを急いで行って、国民の権利を制限(強制)することだって出来たはずなんですよね。「法律の留保」ってそういうものでしょう。

それが憲法違反だったのだとして最終的に解釈する権限があるのは「裁判所」なんですから、立法府が端から「なんにもできません」という理由にはならない(この国の主権者が、内閣法制局でないのなら)。

 いやいや、たしかに、どう考えても絶対に憲法上無理だから立法しないという判断は、もちろんあるんですよ。でも、それなら、自粛なんてお願いせずに「我が国は自由を制限しない。リスクを理解したうえで、自由にすべきだ」とスウェーデンのように判断する手だってあったわけです。それも立派な決定なのだから、いずれにせよ、決定しない理由にならんのですよ。

 どちらにしたって、その判断に異論があるなら、野党と衝突することになるはずでしょう。それなら、立場の違いを明確にしておけばいい。野党の側はそこで与党を止めることはできなくても、判断が間違っていれば責任の所在を明確にできるわけなんだから。
 政治の役割はそこにこそあって、モメるのが嫌だから立法による危機対応をしないなんて、ただの責任放棄じゃないかって言われても仕方ないと思うんですよね。
 コロナ禍の対応については「職域接種」にしろ「歯科医師によるワクチン接種という超法規的措置」にしろ、いちいち立法を飛び越えて物事を解決しようとするから、話が歪む。「ワクチン接種がどうしても必要なのに医者が責任を果たさないから打ち手が確保できない」というなら、法律を改正すればよかったんじゃないでしょうか。コネ接種やら超法規的措置なんて、立法府でできることをやってから、やむにやまれずやるものでしょう。

差し迫った危機(例外状況)を前に、間違った判断するのを嫌って「判断しないことで乗り切ろうとする」。判断の危険性を承知して、それを慎重に扱うのではなく、扱わないことを決める。こうした決断の先送りと、責任主体のない統治が非常に顕著になっています。でも、それってそもそも立憲主義の精神なんでしょうか。「立憲主義を守れ」と言っていたなんでも反対の野党さんは、こういうことこそ問題視すべきなんじゃないでしょうか。まぁ、どうせ彼らも責任取るのが嫌だっただけなんでしょうけどね。

 きっとカール・シュミットの「決断主義」が勢いを増すのって、こういう時代状況なんだろうな、と。本当に嫌な空気が漂う時代です。

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