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(短編ふう)ハイヒール

冬の冷えた青空へ向かって、ピンの細いハイヒールが地下鉄の出口を昇っていく。

ハイヒールは、ぼくの中でひとりの先輩につながっている。

最初に配属された営業所で面倒をみてくれた先輩だ。
ガッツリした体格で濃い髭剃りあとが目立つ。
パンチパーマの強面だった。
ところが、優しい人柄で、Iちゃん、Iちゃん、と親しまれていた。
小型のメモ帳を胸ポケットに入れて、ささいなことさえ始終メモにとっていた。
用件が終わればそのページは破いて捨てられた。
昭和の任侠映画のエキストラのような風貌をした、宮沢賢治が詩にしそうな性格の30半ばのマッチョだった。

彼女の話をきいたのは、納期遅れをなんとか避けることができてほっとした夕暮れ近くだった。
夕方の渋滞が始りかけていた。
トラックの運転席は高く、前に連なる赤いテールランプが冬の澄んだ空気の先に、遠くの方まで見渡せた。
のろのろとした時間の中、ハンドルに覆いかかるようにしていた先輩が話し始めた。
普段、自分のことをオープンに語るひとではなかったけれど、納期に間に合った安堵と暮れかかる残照がそういう気分を誘ったように思う。

「彼女のヒールが、側溝の金網に刺さってしまっていたんだ。」
と先輩は言った。

片足脱いだ綱引きスタイルで、刺さって抜けない自身のハイルールと格闘していた。
有名な百貨店の納品口側の道路で、通行人が多い場所ではないものの、人気がないということもないのに、行きかう人は誰もこの困った女性を助けるふうはなかった。

「自分以外には見えないのか、と思ったよ。」

マッチョな彼にかかれば、ハイヒールはすぐに抜けたが、高価そうなエナメルにはひどい傷がついてしまっていた。

先輩は、怖そうな外見をしているので、一方の彼女が、この場面をどう解釈したのか、なかなか想像が及ばない。

こんなところで、せっかくのお気に入りのヒールが挟まってしまって女が困っているのに、無関心に素通りする人ばかりなのだ。
悲しい気持ちや悔しい気持ちと、頑固に抜けないヒールにいら立つ気持ちが入り混じって、なんだかわからなくなっていたにちがいない。

そこへ、強面のマッチョな男が近寄ってきて、似つかわしくない小さな声で、
「大丈夫ですか?」
と言う。
見れば大丈夫ではないのはわかりきっているから、すぐには否定できない。

あまりかかわりたくない、と思うものの、
「抜けなくなっちゃって」
と助けを求めてしまった。

パンチパーマのマッチョが屈みこむと、ハイヒールはあっけなくポンと抜けた。

「傷ついちゃいましたね。」
彼は、自分のものではないのに、残念そうに言った。
そして、あろうことかそのまま履かせようとしてくれる。
一瞬、ひるんだものの、女はつま先を差し出してしまった。
シンデレラがガラスの靴を試すような格好になる。

大きな肩に手をついてバランスをとる、そんな指先さえ目撃した記憶のようになっていたから、その後の先輩のそのニュースには、今でも納得がいかない。

ある日、先輩が部屋に帰ると、妻の姿はなく、洋服などの身近なものも全てなくなっていた。
奥さんに逃げられた、と人の口は言う。

納得がいかない。

女の姿をして人間界に混じっていた妖がいる。
ある日、側溝に靴のヒールが挟まって困っていると、優しい男に助けられた。
妖は恩返ししよう、と考える。
5年を睦まじく過ごした。
しかし、もとより妖の掟で、5年をたてば男のもとを去らなければならなかった。

そういう民話であってもいい。

それから、とうとう先輩は、会社に姿を見せなくなった、と聞いた。
「肩を落としていて、掛けてあげる言葉がみつからなかったよ」
と言われるのを聞いた。
無断欠勤が3日続き、総務がアパートを訪ねたら、部屋は引き払った後で、引っ越しの手続きもすっかり済んでいたという。

出口の先の交差点でハイヒールは立ち止まった。
信号が変わるのを待ちながら、横に並んだ彼女の横顔を盗み見てしまうが、髪で隠れてみえない。

妖は、結局、引き返してきたのだ。
引き返してきて、今度は先輩をさらっていった。

先輩の消息は今も聞こえてこない。

ー了ー

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