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『防災おにぎりデー』に参加始めたいきさつ

自身、人間の器が小さいと思う。
但しその自覚あるので、人と接する時は注意をしている。
だから相手がそれに値しない人物と分かったら、
その性質を剝き出しにして接することになる。

また、とてもせっかちだ。
小学校に上がる前に九九をマスターし、雑誌「小学〇年生」は
一学年上のを読んでいた。
お陰で田舎で過ごした小中学時代は神童扱い。
しかし頭がいいわけじゃなく、当時はせっかちという自覚なかったから
周りの評価と自身に何となくギャップを感じていた。


私には3学年下の弟がいた。
弟の名は、母の幼馴染(たぶん初恋の人)から漢字は違うがつけられた。
また弟を生む時の方が体調悪く苦労したので、母が少し弟びいきなのは感じてた。

父方母方とも、親交がある親戚の中では弟が一番年下で可愛がられてた。

一方、私は親戚内の評価も「秀才」で、そこがベースになるので
学業以外とりえない子供の時は、「~の割に頼りない」とも思われていた。

器の小さい私はいつからか、弟に妬みの感情を持つようになった。

一方弟からも、「神童の弟」という目で見られ、その割に大したことない
という評価を受ける。
私のせいで要らぬ比較をされると恨みの感情を持っていたはず。

いつもいがみ合ってるわけじゃなかったけど、そんなマイナスの感情を
お互い抱いてた。
思春期になっても部屋が同じままで、お互い邪魔と感じる機会が増え
マイナスの感情は私の中学高校時代がピークだったと思う。


私が東京の大学へ進学し、家を出た事で弟との関係は徐々に回復した。
就職は大阪へ、また台湾へ赴任もし、私は実家へ帰る機会は少なかったが
弟は進学で家離れるも就職で戻り、結婚する際も車で1時間の所に家を構えた。

父の還暦祝には、私と妻(初回の…。苦笑)、弟夫妻が集まり、
さあこれから親へ恩を返していこう。
そして弟とも、祝で何するか話し合った際にはお互い昔のわだかまりも
感じられずこれから仲良くやっていけるよね、と思っていた。

ところが。


その二週間後の早朝、電話が鳴った。
声の主は母からで、悲痛な叫びで弟が死んだ事を聞かされた。
奥さんが司法解剖を断ったから正確な病名は分からないが、睡眠時に
呼吸が止まって、という事だと推測する。突然死だった。

(そんな訳ない。こないだもそんな兆候なかったぞ。
 母がオレが実家にあまり帰らないから嘘ついてる可能性もある…)
などと葬儀会場に向かうまでの間も考えてた。
そんな都合の良い期待も虚しく、箱に入って動かない弟を目の当たりにして
現実を受け入れ長時間泣いた。

暫くして、死を自分よりも悲しむ者の存在に気付いた。
弟の奥さん、母。
喪主の手伝い・代わりをしながら、自分より悲しむ人をケアしないとという
使命感から悲しむのは後に回した。
葬儀が終わり、煙となって空へ溶けて行った弟を見て
そこまで貯めてたものを吐きだすようにまた泣いた。


弟の死は自分にとって勿論、とてつもなく大きな出来事だった。
人はこんなに突然亡くなるものなんだ。
→じゃあ、一日一日を大切に生きないと。
世界観が変わった。

暫く実家へは週末に片道3時間掛けて通った。
奥さんとも49日終わるまでは文通した。
既に結婚後の方向性が違った当時の妻とは、離婚をお願いして
まず別居となった。

奥さんや母の強大すぎる喪失感を目の当たりにしながら
自分の悲しみの重点は少し違うと徐々に自覚した。
借りを返してない、マイナスなまま去られて返せない無念さ。後悔。
だって仕方ない。
その時はこんな事になるなんて想定出来なかったのだから。
当時の自分が今の自分だったら…と何回も思い返している。
今もまだ。


それからおよそ20年後。

母は相変わらず喪失感癒えてない。
奥さんは再婚し、元・義妹となった。
私は、日常では弟の死を思い出す事はとても少なくなっている。

そしてせっかちな自分は、退職も早期を選択し、再就職で昨年7月から
滋賀県大津市に単身で住むこととなった。

滋賀県に来て暫くして、私は滋賀中心にパーソナリティ・防災博士を
されてるSARIさんの大大ファンになった。
(このいきさつは後日書きたいと思ってますが、今回は割愛)

「防災おにぎりデー」は、SARIさんを通じて知った。
滋賀県(関西)では、毎月17日に、東北では11日に実施されている。
めいめい防災の大切さを思い出しながら、被災の時に差入れになる
おにぎりを食べる、というもの。
(+α、SNSやってる人は、食べるおにぎり画像をSNSに上げる)

知った時は、解るけどよく分からないなあ、というのが正直な感想だった。
でも"推し"がやってるし、1月17日は自分もやるか、とくらいに思ってた。


1月16日深夜。
"推し"のツイートで知った「被災前日」の番組を見た。

前半は、阪神淡路大震災で突然家族を失った小学校教師の男性が出演され
その経験から、「一日一日を大切に生きないと」と思い、
生徒にもそれを伝えてる映像だった。

それを見て、弟との別れを思い出した。

「自分は、この人と似た経験をしているんだな」
  (自身も被災された分、この男性の方が辛い思いをされたと思うが)

「この人、自分と同じ事を思われてる」

そんな事に気づかされ、涙が止まらなかった。
この男性がされている事が、他人事じゃないように思えた。

しかし、自分には教え子なんていない。
「一日一日を大切に」と語る相手がいない。

せめて出来る事として、「防災おにぎりデー」に自発的に取り組もうと
考えた。


「被災前日」見てから明けた1月17日当日は、
いきつけの居酒屋に事前に「おにぎり食べに行きます」と言ってて
お店の人も気合入れて、ビワマスの身+卵のおにぎりを出して下さった。
いただきながら、その場にいた方に「防災おにぎりデー」の存在を
話すことでスタートを切れた。

何せ月1の行事で、次回どうするかを考える間が長い。
どうせやるなら個性を出したい、と色気も湧き上がる。
"推し"は毎月、可愛いキャラおにぎり画像を上げている。
自分はどうするか??を深く考えるまでもなく、初回いただいた
おにぎりがヒントになり構想はすぐ固まった。

 「明日突然死ぬかもしれないんだし、うまいのを食べてやろう」
 「食べ歩いた各地の名物を入れたらその紹介も兼ねるし
  いいんじゃないか?」
 「そういう方向でやってる人はまだいなさそうだな」
 「料理苦手じゃないし、自作もアリだな
  (在宅勤務でどうせ毎日昼食作ってるし)」

2月17日、自身にとって2回目には、前月の津波で被害があった
三重県鳥羽市・浦村かきの佃煮を使っておにぎりを作り
映えない画像だけどアップした。


自分が上げたおにぎりの画像がもとで、
「防災おにぎりデー」の存在を知ってもらい、
「一日一日を大切に生きよう」→「周りの人を大切にしよう」
と考えてもらえる人が一人でも増えますようにという思いを込め
3月11日現在、まだ自作のは1回しか上げてないけど…
来週2作目を、来月3作目を、…と今後続けるつもりです。

昨年この地に導かれ、"推し"と出会い、こう思い動くに至った事が
ものすごい偶然の重なりだと感じる。
まるで何かが私を導いているようにも思える。
見返りないと動かない、器の小さい私を。
これ、弟の仕業なんじゃないかと疑ってる。
次実家帰る時には、弟が好きだったものを仏壇に買ってかなきゃ。

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