②プリーモ・レーヴィ『これが人間か』を読んで
化学者であり文学者でもあるケンタウロスことプリーモ・レーヴィ。
彼はユダヤ人としてアウシュヴィッツに送られ、生還してすぐの1947年に当時の出来事を『これが人間か』という本に綴りました。
アウシュヴィッツの証言としての『これが人間か』
アウシュヴィッツから生還して当時のことを書いた作品はいくつかあるものの、1947年という早さで書いたのはレーヴィだけしかいない(はずです)。
レーヴィが続編としてアウシュヴィッツを出てからイタリアに帰るまでを描いた1967年の『休戦』や自殺の前年に発表された論説形式の『溺れるものと救われるもの』に比べて証言性・客観性が強い印象でした。死んでいくものたちの様子や、あらゆる人々が人間ではなく獣や機械のように動いている様子がありありと描かれています。
自らの体験を書きたい・伝えたいという衝動とは別に、ホロコーストという問題に直面してそれをどう解釈すれば良いのか戸惑っている様子が伝わってくるような感じがしました。
善悪の此岸
「善悪の此岸」「溺れるものと救われるもの」「最後の一人」などの章を読むとアウシュヴィッツという問題の難しさが伝わってきます。一概に誰が悪で、被害者が誰でということを決定できないのです。
ラーゲル(アウシュヴィッツなどの監獄のこと)において生き残るためには弱者を虐げ権力者にへつらい、盗みや騙しを通して食料などを確保しなければなりませんでした。すなわち、レーヴィらユダヤ人の生き残りは純粋に善人たりえないということになります。
「最後の一人」の章では看守に反旗を翻した囚人の処刑を前に、レーヴィら他の囚人たちは俯いたままでした。「同志諸君!」という最後の呼びかけに誰も答えません。
後に『休戦』で語られるイタリアへの帰還の道でレーヴィはヒトラーに反抗して国外追放となったドイツ人女性にも出会います。
ラーゲルで反抗しなかったレーヴィとヒトラーに立ち向かったドイツ人女性、上からの命令に従ったアウシュヴィッツの看守たちと看守の言いなりになっていた囚人たち。このような構造から誰が悪で誰が善なのかという線引きは容易に消えてしまいます。
『これが人間か』を始めレーヴィのアウシュヴィッツに関わる著作は、単純な被害者として糾弾するのではなくこのような難しさを踏まえて語られているところが素晴らしいと感じました。
オデュッセウスの歌
ここまで読むとレーヴィの著作はルポ的なのかと感じるかもしれませんが、紛れもなくレーヴィは文学者としても評価されています。『これが人間か』において特に評価が高いのは「オデュッセウスの歌」です。
この章ではレーヴィがフランス人の囚人に対しイタリア語を教えようとした際に突然ダンテの『神曲』地獄編のの一部が思い浮かびます。
この章を読んでいてすごいのが、大海原を旅するオデュッセウスと共に読者もレーヴィも思索の旅に出ていると思いきや、夢から覚めたように灰色の現実が飛び込んでくるというのが繰り返されるところです。読者のイメージもレーヴィと一緒に海原と監獄を行き来します。
『神曲』においてオデュッセウスの船は最後に海に沈んでしまいます。「徳と智を求め」ようとする人間的な生き方と、考えることを放棄して獣のように動く囚人の生き方の間でレーヴィが揺さぶられた結果、以下のように章が締め括られるのです。
束の間の夢想の時間がこうして終わってしまいます。「ここ(ラーゲル)では現実を忘れ、夢や希望など持たない方が良い」という言葉は随所で出てくるのですが、そんな中でも監獄の外の海原に思いを馳せる「人間的な」時間があったのでした。
最後に
以上のように『これが人間か』はレーヴィの処女作でありながらいろんな読み方ができる傑作なので是非読んでみて欲しいです。
平和な平成の日本に生まれて令和を生きる僕には程遠い体験ですが、時空を超えてそのようなことを知ることができるのも文学の面白さだと感じています。
『星形スパナ』や『周期率』、『ケンタウロス論』などアウシュヴィッツ絡みではない作品もあるのでそちらも是非。私は『周期率』を今読みかけています。
レーヴィを卒論のテーマには…しないかな。
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