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徳川慶喜

徳川慶喜

第15代将軍徳川慶喜の朗読を聴き始めた。 歴史小説の大家、司馬遼太郎の作品である。 NHK朗読特集で、ユーチューブで聴ける有り難さ。

最後の将軍である、徳川慶喜を、綿密に長い年月をかけて、調べ上げて書いた作品のようだ。

今は21世紀。 150年前の日本では、大政奉還の動きが起こり、江戸時代が終焉、明治政府が樹立された。

「1860年には、水戸藩浪士、薩摩藩浪士の企てで、桜田門外の変が起こり、井伊直弼が殺害された。 」

「1853年に、米国のペリー総監督が、黒船で来日、鎖国をやめて、外部に日本を開けと迫る。」

「世界情勢の大きな流れの前に、 300年に及ぶ鎖国政策が崩壊して、日本も新しい時代に突入する。」

「慶喜は一橋家に養子に入り、実父、水戸斉昭の野望もあり、 慶喜は最後の将軍になるべく、運命が徐々に鮮明化する。」

「そんな事情もあり、若年の頃から、9科目の特訓を、それぞれ専門家から受ける。」

「文武に優れた慶喜は、挨拶の口上も抜きんでていた。」

「それに対して、徳川家の大老井伊直弼は、御殿政治の手腕に優れ、しかも、経験も断然多かった。」

「井伊直弼の起こした安政の大獄で、日本横領の咎、陰謀、謀反ありなどと、多くの人を陥れた。」

「多くの大名、旗本も罰せられ、吉田松蔭、西郷隆盛も犠牲者だ。 慶喜でさえ、自宅謹慎の刑を受けたが、2年後、その禁が溶けた。」

「尊王攘夷派と開国派の戦いが起こり、日本国中が騒然とした。」

井伊直弼が殺されて、2年の年月が流れ、慶喜は「救国の王」と、持ち上げるものが増えた。 」

「京都の朝廷側は、勿論、尊王攘夷派であったが、時の将軍家茂は、若年17歳で、おとなしい性格であった。 紆余曲折はあったが、慶喜が将軍の後見役の職におさまった。

「外圧に威嚇を感じながら、日本の外交方針を決める必要があった。 慶喜は鎖国を守り抜く事が、不可能であると悟ったが、 反対分子も多い時節故、 手練手管を使わざるを得なかった。」

「強制的であったとは言え、一度結んだ条約を一方的に破棄すれば、 母国日本が、植民地化する恐れもあった。」

「隣国、清国の二の舞を避けるためにも、 いくつかの港を開放して、西洋が求める、商取引を認めざるを得ないと考えた。」

「表面には、周りの空気を読み、尊王攘夷論を展開、密かに開国の可能性を探り続けた。 」

「この時期、農家生まれの渋沢栄一(1840年-1931年)が、開国派に加担するようになる。 日本の実業家として、生涯で500以上の事業の関わった。」

この朗読特集の二回目は、2019年(平成30年1月1日)に放映された。 それをホノルルで、 同年5月末に聞いている。

「最近、夏目漱石の作品を、いくつか続けざまに聞いたので、江戸時代末期から、明治時代の大変動期の歴史にも、興味を覚えた。」

「慶喜の実父、水戸藩の水戸斉昭は、正妻がよし子で、 子沢山であった。 当然、正妻以外にも、数人の女性と関わった。」

「正妻が、宮家出身であったので、 天皇家との繋がりが深かった。」

「当時、大名の子供達は、人質同然、江戸在住を余儀無くされていたが、 水戸藩の子供である彼の兄弟姉妹は、京都で生活できた。」

「しかし、 父親の強い方針で、慶喜は無骨な藩士のもとで育てられた。」

「慶喜が10歳の時、久しぶりに実家に帰ることを許されたが、 父親の躾は厳しかった。着るものも、絹はダメ、 麻か木綿だけを許した。」

「朝食前に、四書五経を学ばねばならなかった。 武芸の練習も厳しいものであった。 」

「お灸を据えたり、座敷牢に入れたり、食事を与えない事さえあった。」

1950年、小学低学年の頃、2歳上の兄も小学生、近所で悪戯をした事を、近所の人に告げ口され、祖父に土下座を強要され、ひどく叱られていた光景が浮かんだ。

「書は体を表す」と言う諺がある程で、運良く慶喜は、書道に特に秀でていた。 」


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