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時の流れ(2023創作懸賞募集作品 エッセイ)


太平洋のオアフ島に住み始めて、はや4年半になろうとしている。

ポリネシア人の島を、1898年、商人達が手練手管で米国に編入してしまい、ハワイ州になった歴史もある。

当時のハワイ王国のリリオカラニ女王は、生臭い流血の戦いで、ハワイ人が大勢死ぬ事を憂慮した。

女王は涙をのんで幽閉に甘んじ、ハワイ王国を一時的に明け渡した。

もともと、私はハワイ州に引っ越してくる前は、米国の首都、ワシントンD.C.の近郊に37年程住んでいた。 

ワシントンD.C. と、バージニア州の境界線でもあるポトマック川河畔の桜は有名だ。

毎年大々的な桜祭りが開催され、書道、剣道、合気道、太鼓、漫画のキャラクター登場と言った催し物が開かれている。

スミソニアン博物館と呼ばれている、航空博物館、アメリカインディアン歴史館、東洋、西洋美術館、アフリカ系アメリカ人歴史館、その他、どの館内にも誰でも無料で入場できる。

また、ケネディセンターは、5つも劇場があり、演劇、コンサート、公演会その他有料であるが、選択肢が多い。

日本から歌舞伎、能、文楽、太鼓の演奏などが来た時も、ケネディセンターは満員御礼になる。 私も楽しんだ側だ。

しかも、青短の英文科卒であったので、私の好きなシェクスピア劇場で、思う存分シェクスピアの演劇も楽んだ。

役者養成クラスに参加した経験さえもある。

日本語学校もあり、土曜日の朝10時から午後4時まで、文科省の教材を使い、授業が開かれていた。

ただ、ニューヨークやボストンほどではないにせよ、ワシントンD.C.近郊の冬は寒い。

加齢と共に、益々寒さに弱くなる自分のため、また、15年間認知症であった夫が2017年に亡くなったためもあり、一大決心をして、2018年末にハワイに引っ越して来たのだ。

知人も親戚もいない未知の土地であったが、温暖な気候に惹かれ、「出来るだけ自立した生活を維持したい。」と言う、自分の意思を尊重したのだ。

長年、白人が大多数を占める米国首都近郊で、少数派のアジア人として、自由業にたずさわりながら、生活していた。

最後の7年間、専門家達の推薦にもとづき、夫が介護施設に入所した。

冬場のホノルルを、毎年2ヶ月ほど4年間訪問して、実地調査をした。

「自分一人でも住めそうな土地柄である。」と確信して、長年住んでいた自宅を売却した。

始めの3年は、ドンキホーテ近くのアパートを借りていた。

3年半前に購入しておいたコンドに、新築完成後入居した。

まだ、周りの多くの建物は建設中である。

東海岸時代は、私も車を運転していたが、ホノルルでの生活では断捨離を決行、市バスやタクシーを利用する事に決めた。

夫と娘と私の3人家族であったが、東海岸時代は寝室が三つある中産階級の、一戸建て住宅に長年住んでいた。

ホールフードマーケットが目の前にあるホノルルのコンド生活の場合は、スタジオ(一部屋)生活で、全てを極力簡素化した。

真っ青な空と海、海辺の散歩。 元気な亜熱帯植物を、毎日身近に見れる生活がすっかり気に入っている。 

しかも、今度はアジア系が多数派の地域だ。

冬場はハワイの雨季にあたり、雨がよく降るが、ホノルルの雨は遠慮深いのか、夜の間に土砂降りになる場合が多い。

もちろん、昼間に雨が降る時もあるが、 雨宿りをしているうちに、晴れてしまう。

雨が降ると、海風も強く吹き始め、傘はあまり役立たない。

雨に濡れても、直ぐ晴れるので、再度歩いている間に、着ている物は乾いてしまう。

ハワイ在住5年弱のうち、2年強はコビッド19のため、ハワイの住民全員は、エッセンシャルな従業員以外、孤立した生活を余儀無くされた。

でも、私はアイホーンを駆使して、部屋の中でも、散歩中でも、作文に夢中になっていた。

また、疫病が流行る前の2019年の秋、ホノルル生活にも少し慣れた頃、日本旅行も実現した。

東北出身の私は、九州をあまり知らなかったので、1か月に及ぶ九州のんびり旅を実行したのだ。

その年の12月頃から疫病のため、市民が全て孤立生活に突入してしまった。

2023年、やっとゆるやかに、いつもの生活のリズムが戻って来ている。

私は1942年生まれだ。 昔だったら、亡くなっていても自然であるような年齢に達した。

けれど、21世紀は人類の長寿化が進んでいるためか、私は1日平均1万歩を何とか今も維持してる。

私が2歳になる前に「母は病死した。」と、聞いている。 

本人の私は、まだ赤ちゃんであったため、全然、母の顔も覚えていない。 写真で教わっただけだ。

2歳年上の兄がいた。 幼い子供(兄と私)を抱えていた父は、母の死後割と直ぐに再婚した。

父は国家公務員で、当時、電気通信技師として逓信局に勤めていた。

生まれも育ちも宮城県であったが、仕事の関係で、私が生まれた頃は、兵庫県に住んでいた。

当時としては珍しい、女学院を卒業した離婚歴のある平安朝美人の女性と再婚した。

離婚歴があるとは言え、二人も(私と兄)幼子のいる男やもめと再婚を決意をするのは、大変な事であったと思う。

1940年代、出戻り娘は肩身が狭く、独立した経済力を持つこともままならない時代であった。

父は、自分の連れ子達は、当然、家族の一員として認めたが、お嫁さんの一人息子は受け入れなかった。

お見合いの時、先夫との間に男の子がいた事実を教えなかったのかも分からない。

それにせよ、偶然、兄と同年齢らしい一人息子を手放しても、再婚に踏み切ったその女性の心の内は、複雑であったろう。

この事件が、あとで、特に兄に八つ当たりの形で、災難をもたらした。

1941年の12月7日の真珠湾攻撃で、米国も第二次世界大戦に参戦して、結果的に1945年に日本は敗戦を迎えた。

私は、戦争中はまだ赤子であった。 

再婚後、父親は兄と私を仙台市に住んでいた両親に預ける決心をして、戦争末期であったが、汽車に乗った。 

東京に住んでいた父の妹の家に寄った時、 大学病院勤務の医者であった叔母は、39度以上の熱のある幼児(私)を、「これ以上連れ回るべきではない。」と、私をあずかってくれた。

「治る保証は出来ないけれど、 医者として最善を尽くしてみましょう。」と、叔母。

父と兄は仙台に旅立ち、私は叔母と叔父と叔父の二人の連れ子と一緒に、戦争末期を東京で何とか生き延びた。

運良く叔母の真摯な看護のお陰で、 ないない尽くしの戦争末期にもかかわらず、私はなんとか健康を取り戻した。

戦後一時期、兄も私も、転勤で当時大阪府東成区に住んでいた父の家族と同居していた。  

新しい父のお嫁さんの異母妹が生まれていた。

小学校入学のための身体検査で、私が軽い結核を発症している事が発覚した。

幼子を抱えた父のお嫁さんは大慌てで、兄と私を、近所の古ぼけた空き家に閉じ込め、外から鍵をかけた。

私が間もなく6歳、兄が8歳の時だった。 空き家は当然電気も点かない。 

夜になり、あまりの怖さに震えが止まらなかったほどだった。

結核は人に移る病気であり、「大事な赤ちゃんに移っては大変。」と、若い義理の母が考えた気持ちも今は分かる。

でも、当時、私はまだ6歳にもなりきっていない子供だった。

大人の余りにも冷たい仕打ちに、すっかり打ちのめされていた。

多忙であった父親が、やっと職場から休暇をとり、兄と私は仙台の祖父母の家に落ち着いた。

子供の目から見ると、割と大きな茅葺きの農家作りの家で、築百年以上の古い家であった。

祖父母は、長男の子供達である我々を、とても大切に育ててくれた。

兄もまだ8歳の子供であったが、 冬は庭の雪掻きを学校にゆく前に終わらせたり、 家の北側にある風呂場へ、東側にあった井戸から水を汲んで運んだ。

当時、祖父母の家には、まだ、水道が来ていなかった。  

台所に大きな水瓶があり、毎朝、兄が井戸水をバケツに汲んで運んでいた。

しかも、たった2歳違いだけなのに、 兄らしく、私のために、 大きなU字形磁石に長い紐をつけて、家の近所中を引き回し、古釘や古鉄を集めていた。

沢山ためて、現金に変え、カバヤキャラメルを近くの駄菓子屋で買い、箱の中の券を集めた。

近所の友達にも頼み、券だけ貰っていたようだ。十分貯まると、希望の書名を書き添えて送付した。

「小公女」、「小公子」、「ハイジー」、「秘密の花園」、「赤毛のアン」と言った、女の子の喜びそうな本ばかりを注文してくれた。  

8、9、10才の兄だって、本を読みたかっただろうに、内弁慶であった私のために、努力してくれていた。

祖母は文盲であった。 明治の始め頃に生まれた女性で、当時、学校に行けた女性は少なかったのだ。

でも、祖母は何でも出来る女性だった。 味噌や1年分のお漬物類も、全て彼女の手作りだった。

繕い物も上手で、着物の仕立て直しも玄人並みであった。  

障子の張り替えもお手のもの。 梅干しも、家族全員分作ってくれていた。 祖父用の濁酒も作った。

孫達に優しい祖母で、痩せこけていた私の腕に触り、「少しは太ったがや。」と、やさしく調べてくれた。

幸せな数年が過ぎて、兄が中学2年を、私が小学5年を終わった春、急に父が大阪府豊中市から迎えに来た。 前年に祖父は他界した。

宮城県に比べて、豊中市の3月末日は暑かった。 

仙台風に厚着をしていたので、父の応接間があるような門付き住宅へ向かいながら、汗だくになった。

ズーズー弁から、急に大阪弁の世界へ。

運良く、6年生で転校した大池小学校の受け持ちの先生の素晴らしい機転で、新しい学校生活に慣れ始めた。

先生は優秀な3人のクラスメートを、世話係に決めてくれたのだ。

兄は豊田市立中学校の3年生に転入した。 高校受験の時期でもあった。  

仙台時代は、風邪一つ引かない元気な男の子で、しかも近所の子供達と遊ぶ餓鬼大将でありながら、家の用事を良く手伝った。

高校受験期の兄は、急に宮城県から関西に来て、しかも、農村地帯から割と高級住宅街が並ぶ豊中市千里園の中学生活に、直ぐには馴染めなかったようだ。

その上、 大阪府東成区時代、近くに住んでいた父のお嫁さんの薬剤師であった弟が、幼少期の兄と私に対し、繰り返し性的な嫌がらせ行為をしていた。

兄はただでも反抗期に入っていた年齢である上、嫌な思い出のある人のお姉さんである、義理の母をも忌み嫌っていたようだ。

仙台時代とがらりと変わり、 豊中市での兄は、私とも口を聞かなくなるほどだった。

いつものように小学校から帰ると、兄が家の中にいた。 腹痛で学校を休んだようだ。

数日、顔を顰めて腹痛を訴えたが、出世街道真っしぐらの父親は、仕事に気を取られ、早朝から出勤してしまった。

12歳のぼんくら者の私は、ただおろおろするばかり。

義理の母には、年子の子供達がいて手が回らない。

やっと、父親が医療保険証書を兄に手渡し、「近所の医者に診てもらえ。」と、言った。

歩くのも辛そうな兄。 運良く割と近くに小さな医院があった。 待合室には数人の患者さん。 

全員が「直ぐ診てもらいなはれ。」と、言った。他人でも、兄の病状を異常だと思ったのだ。

その日の内に、市立病院に医者の計らいで入院したが、その夜、兄は亡くなった。 

町中がジングルベルの音楽を流している年末で、もうすぐ冬休みの頃だった。

祖母の家の土間と板の間を改造して、水道を引いた近代的台所と新しい二間を大工さんが作り、私が中学一年生に入学する早春に、父の家族と仙台に戻った。

神田外語学校や短大を出て、 小学校の教師、中学校の教師等を房総半島にある館山市近郊で経験した。

その後、東京に戻り、運良く外資系企業にバイリンガル秘書として就職した。

渋谷の祐天寺で、下宿屋に入居、やっと少しゆとりのある生活が始まった。

直属の上司は幸運な事に、思いやりのある親切な中年のアメリカ人で、アジア全体を統括する仕事柄、アジア諸国への出張が多かった。

米国の当時の企業は、秘書はあくまで直属の上司の指示だけ守れば、誰からも文句が出ないシステムであった。

上司の部屋の廊下側に、大きな机が設置されていて、そこが私の職場だった。 

分厚い赤い絨毯が、その階全体に敷かれていたのだ。 

1969年、1970年と、少し貯金が出来るほど安定した生活に入った。

しかも、アメリカ文化センターで原書を借りて、事務所に持参、上司が出張中は読書を楽しんだ。

そんなある日、人事課に所用で入室すると、偶然若いアメリカ人夫妻が同室にいた。

人事課長が言った。「テキサス州出身の方々で、日本語と英語の交換授業をしたいが、誰かを紹介して欲しい。」との事だった。

偶々、入室した私が受ける事になり、毎週、私が日本語の基礎的会話を教えた。

同年齢であった御夫婦が、アラン ポーの作品である「からす」の説明をしてくださった。

お二人は州立大学の修士号を持っている方々で、私一人のための米文学講義が始まった。

喫茶店での週一授業が続いていたある日、「この週末、僕達は高尾山に行く予定だが、君もどうか。」と、聞いてきた。

勿論、私は賛成、分かりやすい渋谷駅のハチ公前で待ち合わせた。

会社の同僚3人も誘った。 私は、ちょっとした遠足気分になり、意気揚々とおにぎりと鶏の唐揚げ、果物などをバスケットに入れて行った。

新宿駅から高尾山行きに乗り換え下車。 運良く晴天で、気持ちの良い初秋の風が吹いていた。 

テキサス出身の御夫婦は、知人のアメリカ人を皆に紹介した。

結果的に、同年齢であったマサチューセッツ州出身のその方と、一年半後結婚した。

夫の母親は敬虔なカトリック教徒だったので、渋谷のカトリック教会で、結婚式を挙げ、その集会所を借りて、ささやかな披露宴も開いた。

渋谷駅から遠くない、青山4丁目のアパートで新生活を始めた。  

夫はジャパンタイムズ紙で、私は九段坂にあった外資系企業で働き続けた。

妊娠と同時に、私は急に、常に渋滞している高速道路に隣接するアパート住まいは、「生まれてくる赤ちゃんの環境としては最悪だ。」と、気がついた。

2階の窓を開けると、車の排気ガスの臭いがした上、 運転手の顔さえ見えてしまった。

私は「庭付きの家に引っ越したい。」と、わがままにも主張した。 結果的に米国に生活の場を変えた。

運良く、夫はサンディエゴの新聞社に即決で就職も決まった。

幸せな6年は見る間に過ぎ、 娘は4、5歳と成長した。

私は主婦業の側、州立大学でアジア研究を専攻、無事4年生大学を卒業した。

自宅内では、夫と娘の会話は当然英語であったが、私と娘の会話は日本語を極力取り入れた。

日本の従姉妹にお願いして、ひらがな、カタカナの練習帳や、小学一年生用教科書、絵本と唱歌のレコード等を送ってもらった。

ひらがな、カタカナもすぐに覚え、小1用漢字も読めて書けるようになった。

日本文化の一部である襖、障子、畳等を教えるためには、「日本に住む事も重要」と、閃いた。

1975年の2月末、夫は運良く、共同通信海外部勤務に決まった。 

「東京都内でアパートを。」と、思ったが、背高のっぽの夫は白人でもあり、日本ではどうしても目立ってしまう。

一軒家を借りれば、「少なくとも自宅に帰ればのんびり羽を伸ばせる。」と思い、私は幾つかの不動産屋に走り込み、借家を探した。

千葉県習志野市にあった。 偶々、急の転勤で家主さん家族が引っ越してしまい、「空き家になっている。」との、事だった。

初めての米国時代、6年近く南カリフォルニアに住み続けた。

いつの間にか、私は日本文化、日本の食べ物などに飢えていたようだ。

夫の仕事も順調になり、娘も近くの幼稚園の年長組に入り、やっと、私は真剣に自分の就職先を、ジャパンタイムズの求人欄で探した。

偶然、神田外語学院が、英語の専任講師を募集していた。

運良く採用され、 私も、習志野から神田まで週20時間、英語を教えるために通い始めた。

6年振りの日本。 寿司屋のカウンターで寿司を食べ、ラーメン屋、そば屋に飛び込んで満腹。

歌舞伎、文楽、落語、茶道、東京の曹洞宗永平寺分院での座禅練習会にも顔を出し、日本文化をひとまとめで楽しんだ。

運良く、娘はいじめにあうこともなかったようで、木の実幼稚園を卒業した。

赤いランドセルを背負って、近所の子供達と公立小学校に通い始めた。

夜は、英会話教室を自宅で開催した所、近くに住む知識人が参加した。

全て、順風満帆であったが、日本生活が4年過ぎた頃、 夫の様子が、まるで木の上に登った魚のように、苦しそうにしている事に気がついた。

1979年頃の日本は、まだ外国人に慣れていなかったのかもしれない。

彼の職場での仕事は英語であり、その点は問題が無かったが、やはりアジアのような、西洋と違いすぎる価値観の文化圏で長年過ごすのは、夫には辛かったのだ。

私は米国に行く決心をした。 幸運な事に、ジャパンタイムズ紙の求人広告で、ジョージア州での仕事を見つけた。

日本の進出企業が、ジョージア州で工場を経営する事になり、その工場建設が順調に進み、技術者4名、経理1名、工場長と社長が本社から派遣される事になり、社内通訳を採用する事に決まった。  

運良く、タイミングが上手く合致したわけだ。

ジョージア州は南部で、当時、私は南カリフォルニア州に住んだ経験のみだった。  

夫は生まれも育ちもマサチューセッツ州で、典型的北部の人間で、南部に住むのは初めて。

進出日本企業での仕事は忙しく、社長と私はジョージア州を毎日飛び回っていた。

弁護士事務所、州政府、設計事務所、雇用訓練関連で大学との交渉など、通訳は多忙であった。

4歳からバイオリンを習っていた9歳の娘は、近くの小学校へ通学した。

夫は経歴書をジョージア州内の新聞社に送ったが、良い返事は皆無だった。

そろそろ、夏休みが近づいた。  米国の学校の夏休みは2か月以上ある。 

夫の両親に夏休み中、娘を預ける事にした。

毎日13時間以上も働いていたので、私は残念ながら家族の世話は全然できない。  

無職の夫が娘の世話もしていたが、働き盛りの夫を、無職のままで知らん顔は絶対にできない。

「他州にも求職活動の場を広めてみたら。」と私。

夫の母方の叔母が、米国の首都に長年住んでいた。 国務省職員として長年勤務した女性だ。

電話で泊めて貰える事を確認し、夫はワシントンD.C.に飛んだ。

数日後、朗報の電話。 米国の首都にある新聞社に就職が決まった。

毎週末、夫は首都からジョージア州に来てくれた。 

折角稼いでも、飛行機代に化けてしまうような生活がしばらく続いた。

二人の給料を比較すると、断然彼の方が多い。 

折角、米国で正規の職業につけて、「退職時期まで働くぞ。」と、意気込んでいた私。

離婚だけはしたくなかったので、私は涙を飲んで社長に平謝り、退職した。

アメリカの新学期が始まる9月の初頭、ジョージア州から私、マサチューセッツ州から娘がワシントンD.C.に向かった。

やっと、3人一緒の幸せなアパート生活が始まった。

落ち着いてから、借家に移り、娘はカトリック系中学に通学した。

学校区選択も兼ね、公立高校へ入学寸前に、銀行から借りて自宅を購入した。

気がつけば、私は再び米国生活で主婦に逆戻りした。

ワシントンD.C.は首都だけに、全ての連邦政府機関もあり、日本を含め世界中の報道機関が事務所を開設している。 ロビー活動事務所も多い。

パーティーも良く開かれる土地柄で、 ある日、私もそんなパーティーに参加した。

偶々、優しいSさんとその場でお喋り。 Sさんの職業は通訳者だった。 

事情を話すと、「国務省言語課で通訳試験を受けられる。」と、教えてくれた。 

その上、連絡先であるFさんの電話番号まで、紙に走り書きしてくれた。

幸いテストに受かり、会議通訳者として登録できた。

紆余曲折があったが、 ワシントンD.C.に越してきた1980代から、徐々に、通訳の仕事が増えた。

南アフリカのケープタウン、モスクワ、ドイツのステユトガード、フランスのニース、オランダのヘーグ、ギリシャのアテネ、ブラジル、メキシコ、カナダ、日本、韓国、その他の国々で開かれた国際会議で、同時通訳の激務をこなした。

勿論、米国内の各州で開かれた国際会議にも仕事で参加した。

1961年卒の高校時代から、「女性も社会進出を」と、考えていた私は遅咲きではあったが、30代の後半になり、やっと専門職に辿り着いた。

自分の無知さ加減に驚きながら、必死で学ぶ姿勢で日々を過ごしていた。 また二言語の単語帳作りにも勤しんだ。

夫も、忙しい新聞社の仕事に専念、仲の良い同僚も増え、20年以上、病気で仕事を一度も休む事もなく、頑張ってくれていた。

娘も、4歳から始めたバイオリンのサイズを成長に合わせて、8/1、4/1、2/1、4/3 と大きさを変え、そして大人サイズになった。

高校時代、ワシントンD.C.で開かれたナショナルシンフォニーのコンクールに出場し、バイオリン部門で優勝、ケネディセンターで交響楽団と共演した。

我が家の三人は、それぞれの分野で実力を発揮し、時は静かに流れた。

2002年頃、 私の会議通訳の仕事でも、アルツハイマー(認知症)の話題が増え、下準備のため、私はそれに関する書籍を購入勉強していた。

「光陰矢の如し」で、 ふと気がつけば、私は後期高齢者の仲間入りをしている。

私の場合は、家庭の事情もあり、また仕事が
知的な上、刺激的で興味深かったので、現役で 75歳まで、夢中で世界中を飛び回って、働き続けた。

2017年、夫も認知症から解放されて、あの世に旅立ち、私の中に「エネルギーが残っているうちに。」と言う、気持ちで大移動を実現した。

誰の人生もそうであるように、私の人生にも谷あり山あり、心臓がドキドキする場面も経験した。

太平洋のど真ん中にあるオアフ島での生活は、今の所驚くほど平穏で、幸せだ。    

散歩中、亜熱帯植物の近くのベンチに座り、空を見上げるのが好きだ。

雲は流れ、常に形を変え、消えてしまう場合もある。

小学校時代、のんびり仙台の茅葺き屋根の家で、祖父母と兄の四人家族で過ごせたのは、一番輝かしい良い思い出だ。

4年生の時、同級生の節子さんと仲良しになり、 節子さんの家に良く遊びに行った。  

弟さんと両親の揃った幸せそうな家庭で、節子さんのお母様は、私の事情を知った上で、入場料のいる遊園地へも、節子さん達と一緒に連れて行ってくれた。

生まれて初めての経験で、小学低学年であった私は、はしゃぎ回ってしまった。 

金銭的には全部、節子さんのお母様に任せてしまったのだ。

また、毎週、家の近所で紙芝居屋さんが、飴を買った近所の子供達に、面白い紙芝居を見せていた。

6、7、8歳だった私は、物陰に隠れて、キャンディーを子供達が買い終わるのを待っていた。

太鼓が鳴り、紙芝居屋さんが紙芝居を始めると、こっそり子供達の後ろに近づき、面白い話に聞き惚れていた。  

要は、ペロンコ(ただ見)をしてしまった。 お金は一銭も持っていなかったのだ。

紙芝居屋さんは、当然私の事も気づいていたが、
知らん顔をしてくれていた。

中学生の頃、 成長した分、より心の中が複雑になり、義理の母と異母姉妹のいる家庭が嫌で、暗い気持ちで中学時代を過ごしていた。

14歳の兄が亡くなったばかりだった。

運良く素晴らしい英語の先生が、私が高2の時に、我が校に来た。

英語の面白さにやっと目覚め、高校生の心理もあり、50人もいる学級内で認めてもらいたい一心もあり、英語の勉強に力を入れたので、英語の成績が上昇し始めた。

東北大学の受験に失敗、東京都大田区で当時開業医をしていた、父方の叔母が仙台まで来て、救いの手を出してくれた。

「何が勉強したいの。」と叔母。「英語」と、答える私。

渋谷のハチ公前で偶然出会った、マサチューセッツ州出身の背高のっぽの25歳の青年。

当時私も25歳。 一年近くの文通後、結婚した。

気難しい私にも関わらず、しかも、離婚ブームの嵐が吹き荒れていた1970年代、カリフォルニア州に住んでいたが、忍耐強く、私を愛情で優しく包んでくれていた。

家族を大事にする夫のお陰で、私も普通並みの人間にゆるやかに成長できた。

海辺を歩きながら、過ぎてしまった人生を考える事もある。

この現在の平和なひとときを可能にしてくれ、陰で支えてくれていた人々が大勢いた事を、今頃、遅ればせながら悟った。

海風は優しく肌を撫でてゆく。 青空に浮かぶ雲。 海辺の波は何度も「幸せでしょー」と、囁いていた。

雨上がりの高山から、清水が坂を下り、麓の川に流れ込み、その川も流れ流れて大河に合流、そしてさらに海に流れ込む。

私の人生も、小川の流れのように、最終的には人類の歴史と言う大海原と合流するのだろう。


#創作大賞2023 #エッセイ部門

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