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日系移民

日系移民

「日本を核攻撃すれば、世界の破壊に向かうパンドラの箱をあけることになる…..」と言うのが核開発に関わった多くの科学者の意見だった。(p. 178、「アメリカはなぜ日本に原爆を投下したか」ロナルド タカキ著

気候の温暖さに惹かれてホノルルに越して来たが、ハワイの歴史の重みも知る必要性を感じ、上記の書物を手にした。

長きに渡り、日系人はホノルル社会に甚大な貢献をした。 第二次世界大戦中は、 例え米国生まれの二世であっても、両親が日本生まれと言うだけで、敵国人とみなされ、 米国本土在住の多くの日系人が、強制収容所に入れられた。  

若い日系人は、自ら志願して兵士になり、 これから米国で生きて行く三世、四世、五世のためにも、 母国アメリカのため、自分の命を厭わなかった。
  
先祖の方々の努力のお陰で、 本土から3年半前に越してきた私も、毎日太平洋を見ながら快適に過ごす事ができる。

世界大戦中、 敵方より早く核兵器を開発しようと米国政府は、大枚を叩いて研究を急がせ成功に漕ぎ着けた。

荒野での実験にも成功、世界ではじめて恐ろしい破壊力のある秘密兵器を手に入れ、対ソ連交渉で有利に展開しようと企てた。  

米国政府内にも、 民間人の住む都市に核兵器を使う事に反対した高官もいたが、 米国政府内の多数は、米兵の命を救い、長引く戦争を終結させるため、また、東ヨーロッパへ利権を増やしつつあるソ連を、縮み上がらせる効果を考慮に入れ、広島県に原爆投下が行われて、 大勢の死者を出して、 続いて三日後、長崎県も原爆投下の被害を受けた。

広島の場合はウラン325を使った、リトルマンと呼ばれた原子爆弾であった。

長崎はプルトニウムを使ったファットマンと言う原爆だ。

ソ連に対する威嚇であり、違った原料を使った原子爆弾の科学的性能実験も兼ねていた。

真珠湾へは28歳の時、 米国人の夫と日本から米国に引越しする途中で立ち寄った。 

当時の私は日系人についても、ほとんど知らなかった。 

カリフォルニア州のサンデエゴで6年間住んだ。 その時初めて、日系人アメリカ人御夫妻に会った。

夫はサンデエゴ イブニング トリビューンと言う地元の新聞社勤務で、 彼の同僚が船引さん夫婦だった。  

丁度年齢も近く、お互いに女の子が一人いた。家族付き合いが始まり、 船引さん達はカリフォルニア州生まれである事を知った。

また、割と近くに、日系人の老夫妻が住んでいて、 JACL(日系アメリカ人市民協会)の存在を知り、会員になった。

新会員は、日系人アメリカ史の本を受け取る。 その本を読んで、米国社会で日系人が置かれていた状況を少し把握することができた。

それから時は流れ、偶然、 ホノルル生活が始まった。 初めの二年半ほどは避けていたが、 意を決して、バスでパールハーバーの海軍基地の観光出来る場所を再訪した。  

以前より日米史を知り、真珠湾攻撃に対しても複雑な気持ちを抱くようになっていた。

今日も太平洋は紺碧の海で、空は晴れ渡って、海風が優しく吹いていた。


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