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承認欲求は生存本能

あぁ、そういうことかと
納得。

人は一人では生きて行けないから
誰かと繋がりを感じ
認められるとホッとしたり
嬉しくなったりする。
承認欲求は悪いものでもなく、
いいものというか「生存本能」の一つとして
承認欲求を持っている自分を認める。ということが
大切なのかもしれない。

特に、インターネットが暮らしに当たり前にあり
SNSが社会を大きく揺るがすくらいの影響力のある中で
承認欲求が満たされる(いいね、スキがつくと嬉しい反応)場所として
今まで暮らしの中になかった情報が
たっぷりと注がれてくるから、脳は情報をいっぱい受け取って
忙しくなる。
嬉しい、美味しい刺激が
止められない、止まらない〇〇〇えびせん状態になるのだろう。

目の前の身近な人の
何気ない「存在承認」をもっと
身体から感じるために
「目」を見て話す。というのは
どうだろうかと私は思っている。
ついつい「スマホ」や
そして時に耳は「イヤホン」なんかも日常で
しまくっていたりすると
一緒にいるけどお互いに「孤立」していたりする。
STAND ALONE COMPLEX ではないけどw
一人ひとりが
個として存在することはいいが
そこで「繋がり」を感じなくなり
そばにいる人よりも
遠くにいる人の「承認」を求める行動になっていく
なんだか不思議な現象が今はおきているのだなぁと
思ったりする。

とくにネガティブな情報が時には
ご褒美報酬系のように反応したりして
ゴシップ記事を読み漁ったりするあたりも
なにか脳の反応だと、気づくと
止めやすくなったりもするように
承認欲求があること。に
自覚的になることで、自分で自分の行動に気づけ
〇〇〇えびせん状態を止めることができるかもしれない。

SNSやWEBの活用は
どんどん、ますます加速するのではないかなぁと
いつも思うし、私自身もnoteの「すき」の数を
やっぱりうれしく感じたりもする「生き物」で
その出来事で一喜一憂するのではなく
「出来事」としてみていくことで
必要以上に感情の浮き沈みを自分自身が作らなくてよくなる気がする。

昭和の私が小学生だったころの情報と比べたら
本当に社会は情報だらけで
その処理をするのが本当に忙しい。
娘たちが生まれた平成~今の令和を当たり前に
生きている彼女たちはどれだけ多くの情報を処理し続けているのかと
思うと、それはそれは生きるのがしんどくなるのが納得できるような気がする。

一つ言えることは「情報との距離」「情報との境界性」を私たちは
自分で創ることは可能だということ。
いつでもスマホやPCの電源を切ることができる。
その「主体性」は自分にある。
常時接続の時代である今
あえて、OFFにすること。
【やらないことを決めること】という自己決定が
自分を守ってくれるかもしれない。

人生というゲームの中での
承認欲求は
生存本能の一つで、もしかしたらHPに附属する
ゲージを作っていいのかもしれない
APPとかね。そうするとHPの回復が早いとかw

暮らしの中にいつでもSNSがある限り
意識的にその刺激と距離を置き
「今ここ」を感じるために
時間を置くこと。ここを意識するだけでも
きっとちょっと「心の安心」が芽が伸びていく気がする。


今日もお読みいただき
ありがとうございます。

笑顔の花がたくさん咲いて
幸せの実が実りますように

やまがたてるえ


これからの学びに活かしていきます!ありがとうございます。