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2022第2回羽黒山歴史探訪を開催しました②

2022年11月3日(木・祝)に、講師に手向(とうげ)地区自治振興会会長の勝木正人さんをお招きし、第2回羽黒山歴史探訪を開催いたしました。
 今回のテーマは「羽黒手向地区の史跡と寺社をたずねる」。勝木正人さんによる案内のもと、羽黒山の寺院である金剛樹院や正善院をはじめ、赤坂薬師神社や旧蓮台寺といった古くからの歴史を残している寺社を廻り、蝦夷館公園からの古道を訪ねて、なかなか行くことがない隠れた史跡を訪ねます。昼食は宿坊・宮田坊にて精進料理をいただきます。当日は12人でバスに乗っていでは文化記念館を出発しました。

第2回羽黒山歴史探訪②

旧蓮台寺跡

念仏堂(写真では葉の陰に隠れていますが…)

 蝦夷館古道・赤坂薬師神社を抜け少し歩くと蓮台寺の念仏堂が見えてきます。世俗を離れた主のために出家して僧になり、この場所に常念仏のお堂を建てたといわれています。また、それからは信心帰依する者が絶えず、昼夜を問わず念仏を唱えていたそうです。*¹
 蓮台寺は昔、蓮台野といわれ、捨て墓がありました。そこに念仏堂を建てて蓮台寺となったのは江戸時代中期です。蓮台寺は第75代羽黒山別当の覚諄(注1)が隠居の場所として余生を過ごし、その次の別当も蓮台寺で隠居したとされます。*² *³

金剛樹院

金剛樹院の見事な庭園

 金剛樹院は、来迎山千勝寺金剛乗院(らいげいざんせんしょうじこんごうじょういん)が正式名称です。阿弥陀如来を本尊とする天台宗の寺院で、美しい庭園でも知られています。また、庄内三十三観音(庄内札所三十三霊場)(注2)の第2番にも数えられ、羽黒山内八大寺院の一つとして、開祖能除太子が開基したと言われています。
 今回は住職の説明のもと、庭園を見学させていただきました。

庭園に関して解説する住職
(勝木正人さん撮影)

 金剛樹院の裏には居住跡と考えられる「百穴」や、最上義光のお局が住んでいたという「おつぼね山」があり、戸川安章氏著の『羽黒山二百話』にはこのような記載があります。

 手向の金剛樹院(中略)の裏山一帯に、大小幾百ともしれぬたて穴と横穴とが存在している。村のものはそれを「石取り穴」と呼んでいた。ここは、そのちかくの石切町というところに、軒をならべて住んでいた石屋たちが、石の地蔵さまをきざんだり、墓石にするのにもちいた石材を取ったあとだといわれている。(後略)

『羽黒山二百話』戸川安章 第36話 百穴のこと

(前略) 江戸時代のはじめに、山形六十五万石の領主だった最上源五郎が改易されたとき、かれの祖父である出羽守義光の寵愛をうけたおつぼねが、その当時、羽黒山の別当であった宥源をたよって羽黒山にかくれ、ここに庵室をむすんで余生をおくった。それで、おつぼね山というのだといわれているが、そのおつぼねは、宥源の姉であった、という話もある。

『羽黒山二百話』戸川安章 第37話 おつぼね山のこと

 このようにして、寺院の周辺にあるものに関しても様々な由来があり、金剛樹院全体としても歴史を感じさせます。

脚注・参考文献

脚注

注1 覚諄(かくじゅん):羽黒山第75代別当。江戸時代後期の僧。開祖蜂子皇子(能徐)に菩薩号を宣下されたいと願い出て、能除(蜂子皇子)に「照見大菩薩」(しょうけんだいぼさつ)という諡号を賜る。それを受けて開山廟を建立。

注2 庄内三十三観音(庄内札所三十三霊場):正徳年間(1711年~1716年頃)に羽黒山荒澤寺住職により、西国札所(さいごくふだしょ)の御砂を勧請(かんじょう)(砂を持ち帰り)し、庄内地方に33の観音霊場として定められた。昭和25年(1950年)に再編成され、現在は酒田市、鶴岡市、遊佐町、庄内町、三川町の五市町にわたって35箇所の霊場がある。*⁴

参考文献

*¹ 『三山雅集』,東水選 呂茄発起,1710
*² 『羽黒町史 上巻』,羽黒町, 1991
*³ 『出羽三山 歴史と文化』,戸川安章,1973
*⁴  庄内三十三観音めぐり, 山形県ホームページ, 2022.11.3閲覧

サムネイル写真:念仏堂の解説場面