芭蕉の弟子・図司呂丸についてのお話【前編】
今回は「図司呂丸」(ずしろがん)という人物とその生涯についてのお話です。
松尾芭蕉の弟子といえば?
松尾芭蕉の弟子と聞けば、おそらく有名なのは『奥の細道』に随行した曾良(そら)のことを思い浮かべる方が多いかもしれません。松尾芭蕉は、俳諧師として俳聖と呼ばれるほどのカリスマだったこともあり、弟子はたくさんいます。
例えば、「蕉門十哲」(しょうもんじってつ)。古代中国に成立した儒教の祖とも言われる孔子の10人の弟子を「孔門十哲」と呼ぶことになぞらえて、芭蕉の特に優れた10人の弟子を「蕉門十哲」と呼びます。
雪残画『蕉門十哲図』(早稲田大学図書館蔵)には、其角(きかく)、嵐雪(らんせつ)、去来(きょらい)、丈草(じょうそう)、支考(しこう)、野坡(やば)、杉風(さんぷう)、許六(きょりく)、北枝(ほくし)、素堂(そどう)の10人が描かれています。おや、曾良は?
曾良は他の『蕉門十哲図』で描かれている場合があります。描かれる図画で「蕉門十哲」は多少入れ替わりがあるのです。つまり、芭蕉の弟子は10人どころかそれ以上存在しました。
図司呂丸とは?
タイトルにもある図司呂丸(ずしろがん)という人物は何者なのでしょうか。
芭蕉は『奥の細道』の旅で、出羽三山を訪れます。はじめに羽黒山を訪れましたが、そこで最初に足を運んだのは図司呂丸の家(現在の羽黒第一小学校向かい)でした。
呂丸は芭蕉の来山に際し、芭蕉への接待や当時の別当代・会覚阿闍梨(えがく・あじゃり)への面会をセッティングするなどのきめ細かな世話を行いました。
『奥の細道』では「図司佐吉」と記してありますが、これは図司呂丸のことです。呂丸という名前は俳号で、近藤佐吉(こんどうさきち)が本名です。彼は羽黒山伏衣装の染物屋を営んでいました。「図司」は染物屋という意味です。
彼は芭蕉が『奥の細道』の旅で羽黒山に来訪した際に弟子入りし、「図司呂丸」と名乗りました。この「呂丸」(ろがん)という名前は一部表記ゆれがあり、「呂丸」(ろまる)、「露丸」(ろがん)など、様々な呼び方があります。
芭蕉の出羽三山への滞在は『奥の細道』の中でも最も長かったと言われています。呂丸は芭蕉が羽黒を離れて長山重行(ながやまじゅうこう)と合流するまで見送りました。
春が来るのを望んだ最期
『奥の細道』で芭蕉が出羽三山を訪れてから3年後、「蕉門十哲」の1人・各務支考(かがみしこう)が出羽三山に訪れます。呂丸は支考に出会い、酒田市の俳人・伊東不玉(いとうふぎょく)とともに象潟(秋田県にかほ市)に遊びます。
呂丸は芭蕉に弟子入りした後、俳諧修業に出るため上京します。芭蕉と再会し、『三日月日記』の草稿を芭蕉から渡されます。呂丸は芭蕉からそれを渡されるほど認められていたのです。
呂丸は伊勢参りのために西に向かいます。その後京都へと上洛します。しかし、1月の半ばから病に倒れ、元禄6年(1693年)2月2日に客死しました。
呂丸の生年は不明で、何歳で亡くなったのかはわかっていませんが、桃隣の『陸奥鵆』によると「四十にたらずして行事本意なかるべし」とあり、40歳未満で若くして亡くなったのではないかと言われています。
悼まれ、愛されていた証
元禄6年(1693年)2月2日に呂丸が客死した折、様々な人が哀れみ悲しみました。松尾芭蕉や濱田洒堂(はまだしゃどう、洒落堂・しゃれどう)、各務支考(野盤子・のばんし)は追悼の句を添えまし
た。
現在、羽黒手向の烏崎(からすざき)稲荷神社にある図司呂丸句碑は図司呂丸死後100年後の寛政5年(1793年)に建立されたものです。
句碑には辞世の句も刻まれています。
都(京都)の春の雪は消えやすいといった内容ですが、「春の雪」を呂丸自身に例えているのでしょうか。
まとめ:それは羽黒の若き俳人
芭蕉が出羽三山に来訪して333年。その弟子・支考が来訪して330年です。
出羽三山と芭蕉を繋ぐに必ず語られる人が、図司呂丸です。彼の情報は未だわからないことが多く、その生い立ちはミステリアスですが、彼を取り巻く人物の語りによって非常に愛された人だったことがうかがえます。
次回の「芭蕉の弟子・図司呂丸についてのお話【後編】」では、今回の企画展では触れていない、この前編だけでは見えてこなかった呂丸の姿をよりディープに探っていきたいと思います。呂丸が羽黒に来る前の話や呂丸の死後の子孫の話などを、出羽三山研究の第一人者である戸川安章氏の視点を参考に掲載しますので、後編もぜひご覧ください。