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短期研修プログラム「表現/社会/わたしをめぐる冒険」|レポート⑦山下智代さん

「モヤモヤ」なんか怖くない、たぶんこれからは



最終日。会場を飛び出し、キャリー片手に上田の坂を駆け下りた。限られた時間の隅から隅まで味わい尽くしたくなる濃密な3日間で、懇親会まで例に漏れずギリギリで21:29発の新幹線になんとか乗り込んだのだった。
あっという間に東京に着いて、眠気にまみれながら構内へ下りると、眠る気配のない東京の人混みとスピード感がどっと押し寄せてくるように感じた。同時に、3日間が特別な何かを纏っていて、特別ではない自分をあたかも特別のように扱ってくれていたのではないか、という「モヤモヤ」さえ瞬間的に沸いた。とはいえ、上田にいようが東京にいようが、ほんの数時間前の自分と今ここの自分が爆睡の移動中に大きく変化するはずもなく、そもそも特別な訳ではなく、この不可思議な「モヤモヤ」は、せっかくの3日間を台無しにする不要な「モヤモヤ」だ!と一刀両断した。正確にはそんなズバッと切って捨てた訳ではないけれど、これはこれで参加している途中に感じていた「それではこれをどう都市へ持ち帰れば良いのだろう?」という疑問と繋がる部分で、これを一人で抱える必要はなく誰かと共有することで少しずつ正体がハッキリするだろうという安心感みたいなものですぐに冷静になれた。
抱えていった「モヤモヤ」そのものの変化もさることながら、「モヤモヤ」への耐性を獲得した3日間だったのである。

ゲストハウス入口から見える犀の角の屋根

空っぽのまま


3月に主催の劇場公演を終えてから、どうにも空っぽになってしまったため、出会いと刺激を求めて本研修に参加した。「モヤモヤ」を持ち寄るとの案内を貰ったものの、何についての「モヤモヤ」を持参すればいいのかもよく分からないまま初日を迎えたのだった。
最初のセッションでペンとポストイットを渡されてしばし何も書けなかった。 (明確な言葉にならない…)とか(こんな、わたくしごとを吐露してしまっていいのだろうか…)とかが「こんな個人的なことでいいんでしょうか…」になって思わず呟いた時、すかさず背後から「大好物です。」と犀の角の伊藤さんの声が聞こえた。同じグループのペンがさらさらと動き出したのも、その頃だったように思う。「わたし」についての開示は結構怖い。そこから、他者の言葉を介して少しずつ「モヤモヤ」がある輪郭をもつようになっていった。

ポストイットの木


ポストイットに書いて大きな模造紙に貼っていく作業そのものは、ワークショップの原始的手法のひとつである。それを見上げながら、参加者の片山さんが「オンライン上ではやったことがあるけど、こうやってアナログな方法でもできるんですね!」と言っていて、ちょっと衝撃を受けた。アナログが最初にあってオンライン上にも反映されている手法なのだよ、というのも野暮ながら、振り返ってみると同手法でも全く見え方が違うなと思う。3日間、参加者やそれから犀の角を訪れた人が皆壁を見上げていた。初日の模造紙からどんどんはみ出て枝葉を伸ばしていくそれは、大きな木のようでもあり、着地点が見えずに皆の思考をしばしば宇宙(思考停止?)へと誘っていた。でも、「わたし」から始まって拡張していく様が、目に見えて実感できることや、それを隣り合って眺める、という光景はオンラインにはない。はらはらと落ち葉のように落ちてくるポストイットが、この3日間の立役者だったことは間違いない。

日増しに拡張するポストイット

アートの在り処


「自分が一番遠ざけているところにアートがあると思うんです」というメンター藤澤さんの言葉に私は真っ先に「生活」を思い浮かべていた。「演劇」との距離感を感じている時、「生活」が圧迫してきているような「生活」を敵視するような感覚があったからだ。演劇と生活の隔たりを感じながら、抱えていたものがあった。

「演劇をどう信じたらいいか」

はじめからこれはあったにも関わらず、表に出せなかった「モヤモヤ」だった。これが私が今抱えていた「モヤモヤ」の核心のひとつだった。しかしセッションのどこかで「生活のすくいとり方がアート」というワードがあって、それから「今目の前にあることへの応答こそがアートになっていく」といった話もあって、それから「資本主義とアートの相性の悪さ」というボヤキもあって、敵視しても仕方ないし今目の前にあるもの、それが例え「生活」だとしてもそれこそが出発点になるはずだと思えるようになった。
最後までこれはポストイット上には表出しなかったけれど、3日間過ごす中で「アートの力、演劇の力」を信じる者たちが集い、各々が試行錯誤していることを知ることができたことが、答えになった。核心を掴んだ時にはもうそれは「モヤモヤ」とは呼ばないのかもしれない。

生活も共にする3日間

「食べたくなってきちゃった!」


のきした首脳会議での元島さんの話が面白かった。娘さんがお腹が空いたときに「食べたい」ではなく「食べたくなってきちゃった!」と言っていて、身体が体験したがっていることが表出した言葉だと思ったという話である。「○○したい」と言えてしまったらそれは自分の意志・責任になってしまうという。きっと大きくなったら娘の言葉もそのように変化するのだろうけど、と仰る元島さんはちょっと寂し気だったような気もする。そこに、荒井さんの「体調不良の中気付いたら白塗りでリヤカーに乗り薔薇を配っていた」というエピソードが追いかけてきた。身体が体験したがっていることって、「衝動」などという言葉かもしれないが、教育の過程や社会生活の中で基本的に個人の「衝動」は抑制するものとして扱われる。最後に黒い壁を彩った犀の角のみちるちゃんの言葉「学校に行かなきゃいけないの?」にも表れていた。「衝動」の許容には時と場を選ぶかもしれないけれど、表現はここから生まれるものだと思う。とにかくこの「○○したくなってきちゃった!」は、勇気を貰える言葉だった。

上田のあいだ


心に留めおきたいことが飛び交っていて、一生懸命ポストイットを書いたけれど、たいてい日常にまみれて忘れて行ってしまうことも知っている。そんな不安があることをやぎさんに話したら「忘れてもいいんです」と言ってくれた。「それでも覚えていることが、あなたにとって大切なことなんです」……みんな良いこと言いまくってるので、本研修における語録集「あの時あの人が言った大切なこと」を作った方が良いですね。閑話休題。それもそっか~と気楽になった一言だった。3日間、頭を回転させる時間もあったが、基本的にはゆったりとしたプログラムで合間の時間にはたっぷり上田を堪能していたのだ。初日には戸倉観世温泉に連れて行ってもらいその車中で「上田わっしょい」を知り、翌日は岡崎酒造さんにてニコニコ日本酒をゲットしお酒や山や演劇のことをAM4時頃まで語らい、飼い猫と同じ名前の看板につられて入ったお店のお母さんと猫トークで盛り上がりランチ会に遅刻し……そういう合間に触れたことが印象深く残っていたりもする。

プログラム間に満喫した上田のあれこれ

家に帰る、生活をする


私は3日間ハイテンションだった。そのため、フィードバックのなかで「そろそろ帰りたくないっすか」というコメントを聞いた時には驚きつつ、そうだ一旦ここらで自分の居場所に帰らなきゃとハッとさせられたのである。家に帰って来て、生活が始まって、1週間経った。3日間の興奮状態も落ち着き「モヤモヤ」のカケラや、勇気付けてくれる言葉や、持ち帰ってきたものをゆっくりと咀嚼している。しばらくこれを反芻しながら、何かが始まってもいいな、と思っている。「やらなきゃ」や「やりたい」じゃなくて「やりたくなってきちゃった」を待ってても大丈夫だ、と思えるようになり、きっと既に何かが始まってきているのかもしれないと思いながら、レポートを書いている。

ありがとうございました


最後になりましたが、刺激的で濃密で穏やかな3日間をプログラムして下さった犀の角の皆様、メンターの皆様、一緒に向き合って下さった参加者の皆様、ありがとうございました。
振り返り会で私が「やりたくなっちゃった」、「上田わっしょい」の替え歌をここに記して研修のレポートを終わります。はらはら落ちるポストイットと、あの時目の前にいた皆さんと一緒に発話する「わっしょい」で完成した発表でした。

「上田わっしょい」の替え歌 2023.09.10

山があるから 川がある  
川があるから 花が咲く

男だ女だ わっしょいだ 
わっしょい わっしょい 上田わっしょい

花が咲くから 山がある 
山があるから 庭がある 


庭があるから 犀の角がある 
犀の角があるから 人がくる

人がくるから 言葉がある 
言葉があるから 思いがある

思いがあるから 行動に出る 
行動に出るから 表現になる

表現になるから 夢がある
夢があるから 月が出る
月が出るから 山がある

男だ女だわっしょいだ 
女だ男だわっしょいだ
人間人間わっしょいだ

わっしょい わっしょい 上田わっしょい
わ わ わ わっしょいわっしょい
わわわっしょい
わ わ わ わっしょいわっしょい
わわわっしょい

文責:山下智代

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