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短期研修プログラム「表現/社会/わたしをめぐる冒険」|レポート⑥志村茉那美さん

初めて上田のまちを訪れたきっかけは、無言館だった。
あれは夏だったと思う。大学院の先輩が長野市の美術館で展示をしていたので観に行ったら、ついでに一緒に長野観光でもしようという話になった。当時は東京に住んでいて運転免許すら持っていなかった私は、「せっかく長野へ行くなら無言館にも行きたい」「上田市まで行くなら上田映劇も見てみたい」と(図々しく先輩に運転をお任せして)上田市まで足を運んだのだった。そしてその時先輩に「やどかりハウス」、「うえだ子どもシネマクラブ」の存在を教えてもらい、「犀の角」に出会った。
「出会った」と言いつつ、私が初めて上田を訪れたその日は残念ながらカフェの営業がお休みだったのか入れず、正確には、「見た」の方が正しいのかもしれない。私は地元を出て美大に入るまで頻繁に学校をサボり映画館や劇場に通い詰めていたような人間なので、先輩の話を聞いて「上田市はすごい」と衝撃を受けたのを今でも覚えている。10代の頃の私は周囲に白い目で見られながらコソコソと映画館や劇場に避難していたけれど、上田では文化施設が避難場所として公に(?)認められているのだ!そのことがなんだか嬉しかったし、いつか上田に住んでみたい、あわよくば「やどかりハウス」や「うえだ子どもシネマクラブ」に関わりたい、と強く願うきっかけともなった。

自分は今までずっとアーティスト活動や展覧会のテクニカルスタッフなどを続けてきたけれど、その中で、ここ数年同世代のアーティストの多くが、ハラスメントや金銭面の問題などで精神を病んでしまう姿を何度も目にしてきた。新潟に移住して地方における現代アートの立ち位置やジェンダーの問題にも改めて直面してからは、主に東京のアート界隈でよく耳にする「アーティストが売れるためには〜」とか「アートマーケットとは〜」とか、そんな話がひどくどうでもいいことのように思えてしまっている自分がいる。
もちろん、大きな美術館で個展を開いたり、作品が売れたりすることもアーティストにとってすごく大事なことだ。また、それを良しとする価値観のことも決して否定はしない。
それでも、自分が創りたいのはお金になる作品よりも「避難場所」なのだ、と自覚し始めた頃、タイミング良く「犀の角」の採用面接を受けられることになり、私の経歴や志望動機を見た荒井舞さんから「もしよかったら」とお声がけいただいたのが今回の『短期研修プログラム「表現/社会/私をめぐる冒険」』だった。

プログラム初日の「モヤモヤ」を共有する時間。他のグループの発表で「生きていること自体が表現」という言葉を聞いた瞬間、なぜだかふと、冒頭で触れた、先輩と無言館に行った時のことを思い出した。

無言館の展示を見終えて先輩と二人でレンタカーに乗り込んだ時、静岡県で「AI語り部」なるものが生み出されたらしい、という話をした。
「AI語り部」というのは、浜松大空襲での体験を本人に代わりモニター画面に映し出されたAIが語るというようなもので、私はこれに関するニュースを初めて目にした際、強烈な嫌悪感を抱いた。この嫌悪感を共有できない人とはたぶん仲良くなれないと思う。先輩と話している時も「気持ち悪いですよね」とかそんなネガティヴワードを連発していたような気がする。
そのAIはモデルとなった方の語りを10時間以上撮影した上で作成されたものらしいが、そこでの”声”はあくまで想定された範囲内の模倣でしかない。
人間の記憶が日々変化していくし、一つの出来事に対しての語りだって変わっていく。
以前読んだ小説の中で津波を「綺麗だ」と言う登場人物がいたが、そういう不謹慎に思えるような感情をも抱いてしまうのが人間だし、どれだけ鮮明な映像や写真が残されている記録でも、そこにフレームがある限りはフレームからこぼれ落ちた景色というものが必ずある。
そういう変化や矛盾、余白を無視して解析されたデータを”人の声”、”事実”として語ってしまうことはとても暴力的だと思わざるを得ない。生きている人の声は生きている人が発するから魅力的な表現なのであって、AIの技術がその領域には達することは難しいように思う。(AI語り部を頑張って開発した人たち、ごめんなさい。)

美大に通っていた頃、講評会で「これは表現だ/表現ではない」という評価を下される瞬間に多々遭遇した。生きていること自体が表現だ、教員の評価なんて気にする必要はない、と心のどこかでは思いながらも、自他問わず作品の出来が悪いとやはり「これは表現ではないな」とモヤモヤしてしまう。それは表現者と名乗る人間が乗り越えなければならないハードルみたいなものなのだろうか。
以前、自分でも良い作品ができたという手応えのあった講評会で、教員に「なんだかよくわかんねえけどおもしれえよ、これ」と言われたことがあった。もしかしたら、(あくまで超個人的な解釈だけれど)その「よくわからない」が”表現”なのかもしれない、とふと思う。
作品を通して表現したい事や主張したいテーマがはっきりと伝わってくるものでも、ただ「わかる、共感できる」では終わらずに、その先に無限の広がりを感じられるもの。明確な正解がわからない、あるいは用意された結論に余白があるもの。
良い作品に出会うとなぜだか作品とは直接関係のない過去の様々な記憶や感情が想起されることがあるが、それはやはり十分な余白があるからなのではないか。

AIが語る戦争体験はきっと想定を裏切らないだろうけれど、人間はコロコロ変わって矛盾だらけだし、世の中の色んな問題には正解がない。カテゴライズされた枠にピッタリと当てはまる人なんていないし、だからこそ「生きていること自体が表現」と言えるのではないか。
リベルテで生み出される大量のダジャレも、上田駅周辺にあるカオスな店の数々も、「なんだかよくわかんねえけどおもしれえ」表現だな、と改めて思う。

2日目のお昼に焼きそばを食べたり本屋に行ったりした後、その場にいたメンバーみんなで上田にはやたらと「れもん」という名称の店が多いという話題になった。「檸檬」、「レモン」、「lemon」…。研修プログラムの中で気になったワードはたくさんあるし、ジェンダーやお金の話など、真面目に(時に怒りを噛み締めながら)語り合えそうなテーマだって沢山あったはずなのに、なぜか私はこの「上田れもん問題」が気になってしょうがなかった。何人かにこの上田れもん問題について聞いてみたが、特に有力な情報は得られず。よくわからない。だからこれは、もしかしたら何かの表現につながるかもしれない。
上田のNABOで購入した本を読み終えたら、久しぶりに梶井基次郎の『檸檬』を読み返してみようと思う。

研修最終日は真面目にプレゼンしようと思っていたのに朝4時半まで飲みながら研修の内容とほとんど関係ない話ばかりしてしまったし(自分の記憶では4時まで飲んでいたと思っていたが4時半だったらしい)、研修中に皆で出し合ったモヤモヤは結局モヤモヤしたままだったけれど、モヤモヤを共有できる避難場所ができたことが今回の研修の1番の収穫だった。
私の記憶が正しければ最終日の朝3時頃には日本酒を飲みながらTBSラジオの話をしていたのだけれど、そういえば私の好きなラジオパーソナリティーもずっと「モヤモヤをモヤモヤしたままとっておく」ことの重要性を唱えている。
モヤモヤをモヤモヤしたままとっておける環境が近年(とりわけ教育現場では)少なくなっている印象がある中で、積極的にモヤモヤできる場があるのはとても心地が良い。

幸い、私はこれから上田に引っ越して犀の角で働かせていただくことになっている。
またこれからも誰かとモヤモヤしたり、「よくわかんねえけどおもしれえ」表現を生み出してみたり、上田れもん問題について考えたりしていきたい。
そして、そういう営みを続けていく中で自然と生まれた空間が、誰かにとって安心できる避難場所となれば嬉しい。

文責:志村茉那美

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