短期研修プログラム「表現/社会/わたしをめぐる冒険」|レポート⑤かたやまももこさん
前置き
ここから、どんな風にはじめて行こうか?
大学で地域創生について、フィールドワークを中心に、農業、公共交通、まち、観光、魅力発信などそれぞれに対するプロジェクトを行っていた私は、ひとが豊かに暮すきっかけを生み出すことや、地域コミュニティをよりよいものにすることへの関心が高まっていました。
大学4年生のとき、カタリバという高校生に対話の授業を届ける活動を運営するなかで、目の前のひとの人生の傷に向き合うことや、”対話”の重要性を強く実感しました。
そして、自分の好きだった演劇に、これらにつながる可能性があるような気がして、でも何ができるのかわからず、まずはもっと演劇について理解を深めたいと思い、役者としての活動に力をいれつつも、もやもやする日々を送っていました。
そんななか、知人の発信で犀の角の今回の研修を知り、今のこの状況から何か変わるきっかけが得られるかもしれないと思い参加を決めました。
下記に、研修のなかで私が体験したことや考えたことを(思考があっちこっちにいって、全然まとまらないながら、なんとか…)まとめました。少し長いですが、お付き合いください。
固まった枠組みが、お互いに滲みだすように
初日は、3グループそれぞれに分かれて、”もやもや”を出し合いました。
「公共施設・行政機関」のグループと「劇団・俳優・制作等、作り手」のグループ、「福祉・教育現場」のグループです。
印象深かったのは、それぞれのグループごとに、色が違ったことです。でも、それぞれの枠を超えて私が気になった問いが、「社会とつながるってどういうこと?そもそも社会とつながっていないの?」というものでした。
アーティストも、学校も、私自身かなり狭いコミュニティに固まってしまっていて、どんどんと社会との繋がりが薄れているように自分自身感じていました。学校に関しては、学生時代、学校社会が自分の見える視野のすべてだったように思います。また、アーティストに関しては、必死に良い作品、良い表現を追求すればするほど、他者や自分を評価してしまい、最終的に「どうせ一般社会では、良さを理解してもらえない」と、排除的な思考が生まれてきているように感じました。
これらに限らず、行政も、地域も、劇場も、様々な枠組みが、それぞれのコミュニティ内で成熟してきた結果、積み上げられてきた規則やこれまでの慣習、いわゆる文化のようなものにくるめられて、周りとのつながりがみえづらくなり、弊害が起きているように感じられました。
そして、そのような現代において、”社会とつながる”ことが強調されがちですが、公共施設からの意見として「つながる」が書面上評価を得るための言葉だけになってしまっていることも指摘されていました。
現在、社会とつながることが求められていて、言葉だけになっているからと毛嫌いするのではなく、本来の意味でどのように”つながる”べきなのか考えなければならないと感じました。そして”社会とつながる”をより具体的にイメージすると、接続するという意味合いよりは、コミュニティ同士をどう滲み出させ、混ぜ合わせるのか?なのではないかと考えました。
滲みださせ、混ぜ合わせるために何ができるのでしょうか…?
犀の角さんが行っていることは、そのコミュニティにいづらくなった人に対して、居場所を作っていたりします。(後に詳しく触れます。)それは、コミュニティの枠があることで生きづらさを抱えた人に向けられたのもなのではないかとも思えました。課題の大元であるコミュニティの隔絶をどうにか混ぜ合わせることはできないのか、、そんな問いを抱えて話し合いを終えました。
翻訳者が必要?
2日目の朝、朝食を食べている際に、数人と昨日の付箋を眺めながら話していて、
「言語の違いが問題なのではないか」という意見がでました。
それぞれ、使っている言語が、3グループで違うために、バリアが生まれていて、そこには、翻訳する人が必要なのではないだろうか…?という話になりました。
助成金などをうまく取れるのは、アーティストの側の想いを、公共施設・行政機関の言語にうまく変換できているひとなのではないかという意見です。それぞれのコミュニティの壁の間にたてる人の存在。そのような役目を自分が果たせるようになっていくことも、解決策の1つの方法なのかも知れないと感じました。そのうえで、もっとほかのグループの人とも対話してみたいと感じました。
数値でも、言葉でもない価値をどう示すのか…
2日目は、昨日の内容をグループをばらばらにしたメンバーで話し会いました。わたしがいたテーブルでは「公共施設・行政機関」のグループの人の目線を知ることから話しが始まりました。
お金は、全グループに共通している課題であり、補助金に関しては、作品を評価することの難しさがあるという意見でした。現在の評価は、来場者数や利益等の数値的なものになってしまいがちであることが指摘されました。そうなると、きちんと肩書のあるアーティストなどが有利となったり、若手に補助金が届きづらくなっているという現状がありました。また、補助金の企画書をかける人が生き残っていっている現状も指摘されていました。
「劇団・俳優・制作等、作り手」のグループの人からは、「来た人すべてに、アンケートを取ればいいではないか。現実的ではなくともチャレンジするくらいのことをしてほしい。」という意見がでました。アーティスト側の私としても意見の想いは分かります。しかし、アンケートも、言葉で表現することで価値を図ろうとしているようにも思えました。
障害のある方の施設に務める方からは、「そもそも私が関わっている方は、言葉ではないものでコミュニケーションをとっていて、今の議論では私たちは宇宙に放り出されたように感じる」とおっしゃっていました。
数値でも、言葉でもないもの。
そもそも立ち返って考えれば、「演劇やアートとは、言葉では表せない価値を感じるモノだったのでは…」という意見が出てきました。このような目に見えない、表せないあいまいなものをどのように評価し示していくのか、…もはや評価するという行為自体に無理があるような気がしてきました。数値にしなければいけない仕組み、つまり資本主義社会で、金銭が問題となってしまうことが課題なのではないか…資本主義と演劇の相性が悪いのかもしれないという気もしてきました。(もちろん、相性をあわせるとなると商業演劇的にやっていくこともできるかもしれませんが…)
まあ、資本主義をどうこうしようとなると、あまりにも話が大きくなります。必要なのはなんだろうか…と話しを深め、みんながもっとアートや演劇の価値に気づけたり、理解を深めてもらえることが必要なのではないか。それは、”土壌”をつくることなのでは…というところに個人的には行きつきました。
”土壌”ってなんだろう…?
そもそも、上田のようにアートを受け入れる人が多い地域?
上田のまちを歩いているとき、目につく看板に書かれた店名が凄く素敵だなと感じることが多々ありました。また、まちなかでは古本屋さんが賑わい、昔ながらのシアター”上田映劇”も残っていました。そんな上田には、自分の住んでいる地域よりも、演劇などの表現・文化活動を受け入れる土壌があるように感じられました。後に軒下会議のなかで、上田は昔から、いろんな市民活動をしている人たちが多く、百姓一揆が盛んだった過去があることが話されていました。その地の、表現に対する土壌をみて、良い土壌のあるところで表現活動を行う必要があるのかもしれないと感じました。でも、土壌の肥えた地域でしか演劇活動ができないというのは、私が求めているかたちではないように思えました。
どんな表現も受け入れること?
表現活動を受け入れる人たちが多い=土壌が豊か、だとして、受け入れることとは何なのだろうか…と考えたとき、”自分”に視点が戻ってくるように思えました。
リベルテさんのお話の中で「バリアは、私たちの方にある。」という考えが示されていました。表現に対するバリアがあるのかもしれないし、自分や他人へのバリアがあって、私自身も受け止めきれないのかもしれないと思いました。受け止めるには、どうしたらいいのでしょうか…?
そう考えていると、ふと、この研修での私は、とても受け入れられているように感じられるなあと思い当たりました。自分の意見が否定されることがなく、新たな意見が紡がれていく場になっていました。いつもは周りに配慮して発言を控えていたりするのですが、考えたことをそのまま言葉にし続けていました。自分の考えを伝えたり、新たな考えを一緒に生み出したりすることに夢中になっている私がいました。
また、プログラム全体を通して、参加したい人が参加したいものを選んでいいことになっていて、”私”の関わり方をする余白が用意されていました。例えば、ご飯の準備では、関わり方の選択の1つに、会場に来ていた小学1年生の女の子”みちるちゃん”と遊ぶことがあって、実は料理がちょっと苦手な私は、みちるちゃんと遊ぶことにしました。いつもなら、調理で失敗しないかひやひやしたり、「わ、ごめんなさい」って失敗しそうになって、思わず口から出ちゃう私だったと思うのですが、、そういえば、どうやってみちるちゃんを楽しませようか?に必死になってる私がいました。
一人一人の関わり方が多様で、個人への余白をもった場があることで、多様な関わり方やあり方が選択されて、その人がその人らしくその場にいられたのではないかと感じます。自分らしくあれる場は、自分を受け止めてもらえるという安心感があることなのではないかなとも思います。そしてそれは、表現活動上のことに限らず、生活のなかでも培われるものなのではないかとも考えています。
生きるなかで、誰かの表現を受けとめる
犀の角さんでは、ヤドカリハウスという取り組みで、何らかの事情があって生きづらい女性の逃げる場や帰る場所となる宿を、ワンコインで提供していました。ここでは、犀の角での公演のために宿泊に来ていたアーティストと、ヤドカリハウスに泊まりに来た方が、夜な夜な語り合う姿がみられるそうです。心に傷を負ったことを打ち明けたり、共感したり、どこか自分にも似たところがあったり…なぜか心が通いあうのだそうです。この光景には、実は私も似たような体験をしていて、参加のきっかけでも触れていた高校生に対話の授業を届ける活動をしていた際、よく、ボランティアの学生のメンバーと夜な夜な心の傷を語り合っていました。その際、自分にも似たような傷があって、共感をしながら、相手の自分とは違う傷も完全には分からないだろうけれど、どこか受け止めて語り合っていました。
ヤドカリハウスを利用していた女性とお話したときには、「帰る場所があると思えると、頑張ってみようと思える」という話しをしてくれて、わたしも、同じようなことを思ったことがあって、そうだよなと、帰る場所となれる場があることの大切さを改めてかみしめました。
自分の傷を開けるような場、帰ってくる場所になれる場は、必要とされているけれど、様々なリスクもあったり、信頼や安心感を持ってもらうことに時間がかかったり、なかなか作ることが難しいのが現状で、「劇場」にその場が存在していることにとても驚きました。
また、犀の角さんのお話のなかで、”私たち演者は舞台上での表現という表現方法を持っているのであって、舞台上での表現だけが表現ではなく日常の誰かの行為だって表現で、表現方法が違うだけである。”という考えが、とても印象的で、生活のなかの表現を、懸命に受け止めようとしているからこそ、舞台上での表現も受け止められるのかもしれないと。犀の角にある、表現をうけとめる土壌は、ここから培われているのではないかと感じました。
それから、「迷惑は貢献だ」という話し合いの場での言葉も、思い出されました。
イギリスでは、迷惑は、受けた側が何かに気づくきっかけをあたえられる、そんな誰かの表現だと捉えられているというお話しがありました。生活のなかでの誰かの行為は、表現であったり、日常にあるアート的なものであるように思えてきます。
アートや演劇が受け止められること。それは、生活のなかで、誰かの表現をうけとめることから始まっているように思います。
受け止める場。出会い直す場。
受け止める機会として、軒下会談で述べられていた、出会いなおす機会をつくることも必要だと思います。出会いなおして、関わりあって、お互いに受け止めあって、バリアをこえて、コミュニティ内の文化などの枠組みを超えて、少しづつ固まっていた概念が混ざり合っていく場が必要なのだと思います。
これから
3日目の研修の最終発表を控えて、舞台役者な私にできることは何なのだろうか…?
地域活性化のプロジェクトとか、対話とか、なにか混ぜ合わせられないだろうか…?
という、最初のモヤモヤに立ち返りました。。
そして、受け入れることや、出会いなおせる機会になれるような、生活の一部となるような作品のような、、そんな何かが作れないだろうか…と考え始めました。
生活することを、アートにすること
具体的に、生活の一部になることを強く意識したのは、2日目のまちあるきでリベルテさんの「roji」を訪れたときでした。車の入ってきづらい細い裏路地を抜けると現れる素敵な施設で、「お庭を開こう」というプロジェクトからはじまり、まちに開いていくプロジェクトが身近なものから始まっていました。
それらは、生活の延長線上にある活動をアートとして捉えるということが、たくさん行われているようにみえました。刺繍をすることや稲を育てること、生活にたくさんの作品があふれていて、生活するということが、たくさんの作品を作っていることなのかもしれないと感じられました。その上で、それらの活動1つ1つをアートとして見るためには、どんな想いで作っているのかなどを考え、言葉にしていくことが必要なのだなと知ることもできました。
みんなで鳥の名前を考える
生活という身近なことからはじまっていること。出会いなおすきっかけがあって、余白があって、受け止め合えること。そして、何か数でも言葉でもないモノが滲みだしあって、混ざり合って、それが感じられること。そんなことを意識して、最終発表では、作品のようなものを発表しました。
具体的には、みんなでレゴブロックでまちを作って遊びながら、犀の角の軒下の鳥の巣の小鳥の名前を考える。というものでした。
どうなるのか不安と緊張がありながらも、あの場の表現を受け止めてくれる安心感があって、発表することができたと思います。
これから、まだまだ自分に何ができるのか模索が必要だとは思いますが、今回得られたたくさんの気づきや考えをもとに、小さなことからなにか作り出していけたらいいなと思います。自分の求める作品の形が少し見えたような、やりたいことの種が膨らんできたように思います。
最後に
参加者の皆さんがとても温かくて、フワフワしてまとまらないことを、必死に言葉にしたものを、しっかりと聴いて汲み取って、さらに深いお話をつむいでくださって、皆さんと過ごせたことが、自分自身とても刺激になるとともに、楽しくてうれしかったです。
もぎさんのインタビューは、どんなはなしも、しっかりと向き合って聴いてくださって、「あ、まとまらなくても、とりあえず、なんでも口に出してみていいんだ。伝えきれないものも、伝えようと言葉を重ねていいんだ。」と、そういう空気や、思いをもてるインタビューで、本当に素敵な時間でした。みんなの発言がどんどん進んでいったのは、もぎさんのインタビューがあってのものなのでは…?とも思っています。
また、犀の角の皆さまには沢山考えていただいて、この企画と運営と私たちと、向き合っていただいていることがひしひしと伝わりました。本当にありがとうございました。
なんだか、このプログラム自体にたくさんの余白や、受け入れるという寛容さが満ちていて、研修という堅苦しいものではなく、自然体で、ありのままでいることができる場所であったなと感じています。もう、集まれないであろうことが名残惜しいですが、今回の体験をしっかりともって創作を広げていこうと思います。
文責:かたやまももこ
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