現実を変える体感を最短1日で作るマインドセットの専門家 たかひとのプロフィール【 前編 】

たかひとってこんな人生

はじめまして。

私はたかひとといいます。
1979年3月12日生まれです。
現在43歳。

私の人生は語るほど豊富なエピソードはありません。

一気に認知度を上げるほどの経歴や体験はありませんが、あなたの幸福度を上げるための体験はたくさんしてきました。

そう、私は幼少期から学生時代まで自分というものをずっと考えてきた変態です。

体験とは自分自身のことを考えてきた時間。

幼少期から自分に意識が向き、常日頃から自分を見つめていたのです。

幼少期から高校生、大学生と大人になっていくとわかってきたのです。

自分がちょっと人とは違っているんだ。

中学生の頃、親にはよく言われていました。
「あなたは考えすぎだよ」と。
そのコトバを聞いても意味が分かりませんでした。

親が私を見る目もおかしいのでは?とそこまで疑うこともありませんでした。

大人になり、脳が成熟していくと私にはもう1人の人間が育っているのが分かったのです。

この体験だけは私が世界中でもっとも体験の量が多いと感じています。

大人になってから知識をインプットして自分を意識したわけではありません。

幼少期という脳がまだ未熟な頃に無意識にやっていたのです。

意識がずっと自分自身に向いていたのです。

体感としては何のためにやっているのかとは考えずにやっていたため、私にとっては自然のまま、自然に流されるままでした。

後になって分かるのですが、私の自分を考える体験があなたの幸福度を上げることに貢献できること。

この事実に分かったのは40歳ぐらいです(現在2022時点43歳)。

つい最近です。

自分をずっと考えてきた私があなたの幸福度を上げられる理由があります。

それは、

  • 自分を考えるほどリアルに生きられない

  • 自分を考えると常に自分と他者の評価にこだわる

  • 自分を考えると現実から未来という時間軸が体感できない

  • 自分を考えると他者と比較しいつも意識は外部に向いてしまいエネルギー消耗する

この4つの理由を私が身をもって体感してきました。
学校生活、家庭生活、受験、就職、仕事、目標達成などがマイナスに作用します。
その体験をもとにあなたにそうならないようにお伝いできます。

つまり、この4つがあると幸福度が上がらないのです。

ここまでは私が体感してきた話です。

それではどんな日常生活をこれまで過ごしてきたのかを幼少期からのエピソードを見ていきたいと思います。

0〜5歳の頃のココロの体感

あなたは0歳の頃を覚えていますか?

ほとんどの人が覚えていないでしょう。

私は覚えているんです。

ここでいう覚えているというのはお母さんと〇〇の話をしたよとか近所の公園に行ったよという具体的なエピソードではありません。

超抽象的な感覚だけで、コトバにするとリアルな現実の関わりが含まれるため表現はできません。

コトバにはできないのですが、0歳の感覚だけが残っているのです。

意識してあなたに伝えようとすると0歳と43歳の今の感覚が混ざるためうまくいきません。

私を知って頂くうえで、0歳の感覚を体感した人なんだなと感じておいてください。

この0歳の感覚はこれから話する私のパーソナリティを知るために外せない要素になります。

コトバを覚える前の感覚はどこを使っていると思いますか?

ココロの中なんです。

0歳の記憶とはココロの動きによって得た感覚や感情。

一般的に人は3歳までの記憶は無意識に近いため覚えていないのです。

ココロを動かして生きることに個体差はありません。

ではどうして私はそれができたのか?

ココロに意識が向いていたからです。

ココロが動いて得た感覚や感情にたまたま意識が向いたのです。

私は特別才能のある人間とは思っていません。
たまたま偶然意識が向いたのでしょう。

そのおかげで人とは違う世界を体感できたのです。

良くも悪くもです。

誰もが同じだけココロを使って育ってきています。

たまたま意識がココロに向いた私はココロが独立して動いていたという体感を知ってしまいました。

脳が育つ前にココロの動きを知ってしまったからです。

意識がココロをつないでくれたからです。

具体的に両親と私のエピソードは覚えていませんが、ココロの動きから情景は思い出されます。

先ほども書きましたが、コトバにすると現実と混ざってしまうためありのままの0歳の話にはなりません。

コトバでは解説できないのですが、ココロの感覚や感情ではあなたに伝えることができます。

ココロの動きを主体に幼稚園、小学生を過ごす

ココロに意識が繋がったままどんどん成長していきます。

未就学から就学へ。

小学生になると学校で勉強がスタートします。

小学校低学年ではカンタンな問題ですが、高学年になると難しくなってきます。

ココロへの意識が繋がっているのは勉強する際によく気づきました。

これはコトバにできるエピソードなのですが、教科書を最初から順番に勉強していきます。

勉強した範囲だけ知っておけばいいのに、ココロで勉強しようとして本質への問題提起をしてしまうのです。

算数をしていたら、数字について考えてしまうのです。

脳で勉強していたらインプットされた情報だけを見るでしょう。

私にはそれができなかったのです。

そんな状態に対しても素直にそのままでいいと感じていました。

学校の勉強だと小学生から習った範囲のテストがありますよね。

そんなテストに向けて復習するときも本質を考えてしまう。

勉強にならないんですね。

小学生低学年だった何とか対応できてましたが、高学年になるとそうはいきません。

本質を見るのは学校のテストには必要ありません。

でもやってしまう。

誰にも言ったことがありません。

直接ココロで体感していたので私にしかわからないと思っていたのです。

脳が育ってくると今やるべきこととしなくていいことに価値基準で分けます。

  • 最優先事項は今やる価値あること。

  • 今やらなくていいのは今は価値ないこと。

それなのに今思えばですが、価値基準がはたらかなかったのです。

この体感もココロを知るきっかけになります。

ロジックではテスト前にはテスト範囲を勉強して良い点数を取ることですよね。

当たり前の話。

この話が脳の一部では理解しているんですが、ココロが主体なので関係なくなります。

高学年ぐらいからテストの点数は中途半端に。
大体80点が最高点に。

でもあまり悩んでいない私がいたのです。

脳よりココロの感度が高かったため、無意識に自然の秩序に意識が向いてしまっていたのです。

そんな小学生生活が続き、私が意識できているのはココロなんだと分かってきました。

この頃にココロを知っていく人生を大きく変える転機を早くも迎えることになったのです。

中学生活はいたって普通。大きな存在になれる確信

中学生に入ると公立だったので地域の小学校が3つ集まりました。

それまでは小学生というずっと同じ小さな範囲での友だち。

それが中学生になると範囲が広くなります。

知らない人との出会い。

コミュニケーションはあまりうまくありません。

誰とでも話をするタイプではありません。

中学生当初と今の私は人生経験もあって多少キャラクターは違っているでしょう。

それでも特に覚えているのが、同じクラスのメンバーの自宅や家族構成、ご両親の性格的なタイプなどに意識が向きました。

これも当時が分からなかったですが、今考えるとココロの意識がそうさせていたんだなと気づきました。

人の見た目、名前などよりも内面や見えていないところに感心がいったのです。

同じクラスの自宅や家族構成は見えていないですよね。

そこに意識がつながるため、接しながらもいろんな話が友だちとできるようになったんです。

一般的に人は見えているところに意識が向きます。

見えなくなると意識が外れるため記憶にも残りません。

私は脳よりココロを使っていたので、ココロという普遍的な要素で人を見ていたため、家族構成や友だちの内面的なエピソード話でほとんど覚えていました。

脳の記憶のはたらきなら、短期記憶から長期記憶に入るのは全体の3%と考えられています。

脳ならほとんど記憶されないのです。

対象を見て残っている情報と繋がってアウトプットできるから覚えているように見えますが、脳はほとんど記憶を残しません。

中学生らしくなかったので悩んではいました。

楽しいというより見えないところに意識が向くため、ちょっと重い感覚です。

それにココロは感じたことを無限に残すため人を見たら一度知ったデータがアウトプットできるのです。

もちろん自分の内面についてもココロで見ているとよく覚えています。

このタイミングで違和感を感じたのです。

小学生の低学年まではココロに意識が向いているのを何も思わなかったのが違和感を感じたのです。

そこで分かったのは、ココロではない自分という領域。

高校生になると自分が強くなり繋がりを絶ってしまう

小学生まではココロに意識を向けても楽に生きられていました。

脳が育ってくると環境との繋がりができていきます。

中学生という環境で脳内の自分という領域を広げてしまったようです。

ココロと自分は違うんだ!

中学生で小学生の頃と同じように過ごしていました。

コミュニケーションが苦手だなと感じた時期でもありました。

やはり変化があったのです。

内面への意識はココロとは違う領域も広がっていたのです。

それが脳内で作る「自分(自己)」

脳と環境がセットになり、内面に向けられた意識はココロだけではなかったのです。

脳内に広がっていた自分。

  • リアルな現実をとらえる

  • とらえたものを自分が抱える

  • ココロの領域

0歳からココロに意識が向いたのはいいのですが、脳の育ちとともに脳内のエリア(神経作用による領域)が広がってしまったのです。

これが私が考えている「自分」をたくさん考えてしまったことになります。

大人に説教されるときに「もっと自分のことを考えよう」とあります。

このときの自分で「自分を考えよう」と言われたコトバに反応した意識です。

このコトバがなくなれば、意識は自分から消えていきます。

繋がりが外れます。

その程度で終わるので神経作用もその間だけです。

私の場合、ココロという内面への意識が脳の育ちとミックスされて自分を大きくしたのです。

自分が大きくなった状態で迎えた高校時代は自分でも独特な習性をもっていたと思います。

他者(友だち)と極端に距離を置きました。

自分が世界を作るため、友だちと合わないと思ってしまったのです。

高校生の3年間でその場では友だちになっていましたが、今も縁が残る友だちはほとんどいません。

自分が世界を作っていました。

これも今だから区別できるのですが、かなりの理想像を持っていました。

ココロが見つけ出す未来像は再現性あるもの。

脳内の自分が描く理想像は自分を中心とした1番になりたいという願望。

このための理想像なのです。

大人になっても自分を持ってしまった人はいつまでも再現不可能な理想像を描いています。

結婚したいのにできない女性、結婚しても離婚を繰り返してしまう女性、熟年離婚で若い男性を求めてしまう女性は幼少期に自分を大きくしてしまった可能性があります。

日本だと裕福な国家になって、ほとんどのご家庭が高校や大学に進学できるようになりました。

その結果、学生生活が長くなります。

実社会(市場)を感じる期間が延びていきます。

自分を考えてしまう時間が長くなります。

これで高校生ー大学生で脳内が育つ時期に自分に意識が向いてしまう。

それが脳内での自分のエリアを大きくしてしまうのです。

脳のはたらきは極端な理想像を作るからです。

私は高校生活で今の時間より大人になった後の1番(優越性)を願望とする世界に酔ってしまったのです。

酔っていてもそれを行動して再現化するのであれば実社会を知って、うまくコントロールできたでしょう。

学生時代で脳内で考える理想像に意識が向き、手に入れていないのにそうなった感覚。

全部脳内の自分が作っていたのです。

高校生の頃は1番極端な自分がいたなと思います。

脳は思い込みすればその世界観を作ります。

だから、自分を意識することは他の同級生よりも優れていると認識したのです。

恐ろしいですよね。

自分が大きいとアブノーマルな人生になりかねません。

このまま自分を大きくして大学生活に入ります。

浪人をして私立大学に入り、自分の世界観を貫く

大学が京都の同志社大学に入りました。

自分の世界観です。

自分のやりたいことではなく1番になるためです。

当時同志社大学は関西では私学で1番だったのでその願望を満たすために受験勉強を続けました。

ただそれだけ。

自分が世界観を持つため、自分のためで終わるのです。

中学生ー高校生ー大学生と人間的なエピソードはまるでありません。

大学に入ると最初は大学生活も入ってすぐはチャラい生徒でした。

このキャラクターも自分が演じていたのです。

大物になるという再現化しない願望を満たすために自分が頑張ります。

大学では1,000人近く入る講堂で授業を受けます。

1回生は一般教養や基礎に授業が多いです。

その授業で席が近かった同級生とつるむようになりました。

私は浪人していましたので願望を満たす大学に入れて安心し少しの間は楽な日々が続きました。

友人たちとサークル巡りをしては楽しんでいました。

友だちを一緒に回った結果、テニスサークルに入ったのです。

夏休みまでのサークルはほとんど参加してました。

チャラい自分を演じていたのでサークルの先輩や同級生からは面白いといじられていました。

この夏休みに入る前に私の大きな事件が起きたのです。

大学の仲間に流されてテストでカンニングが見つかる

1回生に夏休み前に試験がありました。

大きな講堂でテスト時間ギリギリで着きました。

いつもの仲間とは違う席に座り、ちょっと知り合いだった友だちの隣に座ったのです。

テストが始まり、あるものが私の手元に回ってきました。

それは「カンニングペーパー」。

私が1回生の頃、大学でのテストのカンニング行為が問題になっていました。

後から知ったのですが、監視人数も増やしていたそうです。

ちょっと知り合いだった友だちと別にカンニングする打ち合わせは交わしていませんでした。

一応友だちだったので私にも回ってきたのです。

その紙を手にした瞬間、後ろから肩をたたかれました。

「外に出るように」と。

監視員が回ってきた時にちょうど紙を持っていたのです。

これは自分の責任です。

1回生のテストが全部単位取れなくなりました。

4回生までに取る必要のある単位がギリギリです。

サークルの参加を控えて授業に邁進すればギリギリ卒業。

自分が悪いとはいえ、絶望におちいりました。

この話も今につながる話です。

絶望したのは1番になりたいと願望を持っていた脳内の自分です。

私自身ではありません。

私のもう1人に人格である「自分」です。

カンニングしたという事実が同級生やサークルの仲間に広がるのを極端に怖がりました。

自己評価を高く生きていた自分は評価が下がることは1番嫌がるのです。

その自分がどんどん大きくなっていきました。

この頃、ココロの動きより脳内の自分が中心。

ココロがはたらいていたら、こんなことになっていなかっただろうと思います。

つまり、有名私学に入るのは自分の価値評価のため。

この願望からカンニング行為までがエピソードとして繋がっているのです。

これが脳内をはたらきを増やすと起きてしまう負の連鎖です。

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