はたらいて、愛したい。
ある日、ぷつんと糸が切れてしまった。
―こんなになってまで、わたし、何ではたらいているんだっけ?
洗面所の鏡に映るうつろな自分に問いかける。
私の目はうつろなままで、沈黙を貫いている。遠くから泣き声が聞こえる。
■
営業先に向かう大江戸線に飛び乗り、窓に反射する自分と目が合った。
コンシーラーで隠しきれないクマ、ファンデーションが浮いた肌。
老け込んだ自分の姿に愕然とする。
バッグの中でスマホが振動し、娘が通う保育園の番号を見て、心臓が跳ねた。電車を降りてすぐにかけ直す。
「具合が悪そうなので、迎えに来てもらえますか」
と告げられ、ああ、やっぱりと脱力した。
ようやく漕ぎつけた大口の新規アポイントだが、こんな直前に代わってくれるメンバーが見つかるはずもなく、ため息を押し殺して担当者に電話する。
コール中、胃がぎゅうと縮こまる。
「お世話になっております、本日14時からお約束いただいておりました花田制作の山野でございます。直前で大変申し訳ないのですが、子どもの急病で本日のアポイントをリスケさせていただきたく……誠に申し訳ありません!」
相手はしばらく沈黙し「わかりました、またご連絡ください」と言って電話を切った。
ツー、ツー、と虚しい電子音だけが耳に留まる。
その音を振り払うように向かい側の電車に乗り、保育園へと向かう。
最寄り駅に着いてから、上司に早退の連絡を入れた。上司は困ったように唸ってから、
「またかあ、最近多いね。でもまあ、しかたのないことだから、うん。ほかの日にがんばって埋め合わせしてくれる?」
と言った。再び、胃が軋む。
保育園に着くと、娘がギャン泣きしていた。泣きはらした目と真っ赤な頬が痛ましくて、目を背けたくなる。
「みーちゃん、すぐ来れなくてごめんね」
「午前中は元気だったんですけど、お昼からちょっと熱っぽくて……お忙しいかと思うんですが、もし明日も具合がよくなかったら、おうちで様子を見ていただけますか?」
先生が申し訳なさそうにこちらを伺う。
送り迎えの一瞬で、私の疲れが伝わっているのだと気づいた。
仮にも営業だから、ちゃんとメイクして、パリッとした服を着て、身だしなみには気を付けているつもりだったのに。どれだけ形を取り繕っても、表情ににじみ出ているんだろうか。
なんだか、いろいろなものが自分の手から零れ落ちてしまっている。
あれもこれもちゃんと持ってなきゃいけないのに、速く走らなきゃいけないのに、一歩踏み出すごとにポロポロと落ちていく。
上司は「ほかの日にがんばって埋め合わせしてくれ」と言ったが、これ以上、何をどれだけがんばればいいんだろう。今日だって、必死でめいっぱいがんばっている。それでも、埋め合わせなければいけない穴が空いてしまった。
毎日毎日、張りつめた糸の上を綱渡りで歩いているみたいだ。額にじっとり、冷や汗が滲む。
■
家に帰ってからも娘はぐずり、抱いても抱いても割れるような声で泣いた。
娘を抱いてあやしながら、片手でなんとかおかゆを作る。
やっとの思いで娘を座らせ、ほどよく冷ましたおかゆを目の前に置いた瞬間、娘は泣き叫びながら器を床に叩きつけた。
作ったばかりのおかゆが床に散らばる。
その瞬間、ぷつんと糸が切れた。
―ぱちん。
気づいたら、娘の頬を叩いていた。
娘は目を丸くして一瞬泣き止んだが、すぐ火がついたように泣き出した。
何か言おうと口を開いたが、自分が怒っているのか悲しいのかもわからず、言葉が出てこない。
言葉より先に涙が出てきた。ぼろぼろぼろぼろ、止まらない。娘のように声を出して泣くこともできず、喉から押しつぶした嗚咽が漏れる。
とっさに洗面所へ逃げ込み、扉を閉めるなり洗面台の下にうずくまって「うーっ」と呻く。扉の向こうから、娘の泣き声が聞こえる。耳をふさぎ、頬を何度もつたう涙の感触を感じながら、なんで、どうしてと思った。
―どうして私は、こんなに追い詰められているんだろう。なんで大好きな娘を受け入れる余裕を失ってまで、はたらいているんだろう。なんのために、はたらいているんだろう。
洗面所の鏡に映る自分は、あまりにもうつろだ。
夫が帰ってきた。すぐにただならぬ様子を察したようで「とりあえず休んで」と私を寝室に押し込む。
寝室の暗闇に横たわっていると、しばらく続いていた娘の泣き声が笑い声に変わった。穏やかな夫と娘の談笑を耳にして、ありがたさを噛みしめながらも劣等感や疎外感が心を蝕む。
―夫はちゃんと父親になっているのに、私はちっとも母親になれていない。
ぎゅっと耳をふさぎ、目を閉じた。
■
次の日は会社を休んだ。目は殴られたように腫れてとても出社できる顔ではなかったし、メイクしてハイヒールを履く気力もなかった。幸い娘は回復したので、眼鏡で目元を隠して保育園まで送る。
娘は昨日の出来事などなかったかのようにケロリとしていて、ニコニコと先生のもとへ走っていった。はじける笑顔で「みーちゃん、おはよう!」と娘を抱きとめる先生を見ていると「私なんかより、先生に見てもらったほうがいいんじゃないか」とさえ思う。
このまま家に帰っても鬱々と沈みそうで、カフェに行った。ぼーっとしたかったが、うまく力が抜けない。昨日ドタキャンしたアポイントのことが気がかりで、そわそわする。気持ちを切り替えるためにも、ダメもとでリスケの依頼メールを送った。
30歳で営業チームを任された。「今までやってきたことは間違いじゃなかったんだ」と自信を得て、ますます仕事に打ち込んだ。1年後、ようやくチームがまとまってきたタイミングで妊娠。産休・育休で1年半休んで復帰したら、チームは新しいリーダーの色に染まっていた。自分が育成担当だった後輩男性が、しっかりとまとめ上げていた。もちろん私がリーダーに戻る余地はなく、チームメンバーのひとりになった。
「腐らずにがんばろう。また実績を積み重ねて、自分のポジションを作ろう」
そう思って漕ぎつけたのが、今回のアポイントだった。歴史ある大企業で、成約すれば会社のメイン顧客になるだろう。入念な下調べと提案を繰り返し、ようやく対面でのアポイントが取れたのだ。
がむしゃらにはたらいてきた。コツコツがんばれば、きちんと努力すれば、絶対に実を結ぶのだからと、朝から晩まで働いてきた。でも、子供ができて時短勤務になり、晩までは働けなくなった。限られた時間で、今までと同じ、いや、それ以上の成果を出したかった。実際はうまくいかず、同期はどんどん前に進んでいく。後輩が私を追い抜いていく。
「もっとやりたいのに」と後ろ髪を引かれながら退社し、保育園に向かう。娘に手を振りながら、私はちゃんと笑えているだろうかと不安になる。娘がごはんを食べている間にパソコンを開き、残っていた作業をする。娘が不満そうに甲高い声をあげ、ごはんつぶだらけの手でパソコンのキーボードを叩く。画面から目を離さず「ちょっと待って」と小さな手を払いのける。娘が泣き、私の顔も歪む。
確かに、目の前にある仕事はやりたいことだ。
だけど、今の私は、なりたい私ではない。
■
カフェを出て、保育園に帽子を置き忘れたことに気づいた。保育園に戻り、職員室をノックする。園長先生がひょっこり顔を出した。
「山野さん、こんにちは。どうなさいました?」
「朝、帽子を忘れてしまって。落とし物、ありましたか?」
「ああ、ちょっとお待ちくださいね……これですか?」
「そうです、そうです。ありがとうございます」
受け取って帰ろうとしたら、娘の教室のほうから「きゃあ」と歓声が聞こえた。
「にぎやかですね」
「ですねえ。せっかくですから、みーちゃんの様子、見てみます?」
「そういえば、保育の様子は見たことないです。覗いていいですか」
「どうぞ、どうぞ」
園長先生はいつも朗らかで、ゆったり自然体で歩く。あまりにも穏やかで、仏さまみたいだ。たくさんの子どもを受け入れ、育て、見送っていると、心が凪いで魂が洗練されるのかもしれない。
子どもたちはコップを囲んで「つめたい、つめたい」とはしゃいでいる。遠目にじっと見ていたら、男の子がよちよちやってきて「どーじょ」と拳を突き出した。手のひらを差し出すと、ひやりと冷たい感覚が走る。私の手には、小さな氷があった。氷の中には花が入っていて、氷がゆるゆると溶けるにつれて花びらの先が顔を出す。
娘も氷を手のひらに乗せ、溶けていくさまを不思議そうに見つめていたが、花が出てくると「さいた!」と手を上げて喜んだ。
「子どもの言葉選びっておもしろいですよね。保育園にいると、子どもの感性に刺激を受けてばっかりなんです。子どもたちにとっては、氷が冷たいことも、溶けて水になることも、中に入っていた物が出てくることも、全部新しい発見です。子どもたちの言葉で、その驚きを伝えてくれます」
「そうですね。……でも、なかなか家じゃこんなこと、してあげられない。植物を集めて、氷にして、ゆっくり溶かしながら見守っているなんて、私なんかじゃしてあげられません。日々はたらくのに手いっぱいで、育児まで気が回らなくて……」
園長先生は立ち止まり、こちらを振り返った。
「山野さん、私たちはみんな、保育園で子どもを育てるお手伝いをして、はたらいています。子どもと遊んで、ごはんをあげて、おむつを替えて、だっこして、寝かせて……これって、親御さんがしていることと同じですよね。同じことをしているのに、私たちは仕事で、お母さんやお父さんは仕事じゃないって、不思議じゃありませんか?
育児だって立派な仕事で、はたらいているんです。会社のお仕事もしている親御さんが、私たちと同じように育児するというのは、物理的に無理なんです。 “はたらく”の語源、ご存じですか?」
「いえ……」
「傍(はた)を楽にする、という説があります。つまり、他者を楽にする、という意味です。育児ほど“はたらく”に適した言葉はそうありませんよね。とにかく子どものためにがんばるんですから。子どもが生きやすいように、寄り添っていくわけです。
育児中の親御さんは、家でもめいっぱいはたらいているんです。会社の仕事と育児を切り分けず、どちらも自分が全うしている仕事だと思って、まわりと比べず、自分に合った生活を送っていきたいですよね」
私もまだまだ試行錯誤中です、と仏さまは笑った。
からん、と氷が溶ける音がする。私の手のひらに、みずみずしい花びらがある。
■
家に帰ってから、携帯電話が鳴った。電話番号を見て、心臓が高鳴る。
「はい、花田制作の山野でございます」
「どうも、池田です。リスケの件、15日でどうでしょう?」
「ありがとうございます! ぜひ、15日にお願いいたします。このたびは私の都合でご迷惑おかけしてしまい、大変申し訳ありません」
「いえいえ、育児はね、ままなりませんから。昨日はすぐ迎えに行けましたか」
「はい、おかげさまで……お気遣いありがとうございます」
「私も子どもが2人いましてね、大変な思いをしたもんで。まあ、はたらくもの同士、無理せずいきましょう。では、また」
あっさり切れて、ツー、ツー、と無機質な音が鳴ったが、落ち着いた脈拍のようで心地いい。
■
時短勤務でどこまでできるか、商談がうまくいくか、母親らしい育児ができるか、いずれもまだわからない。
でも、はたらくのが好きだから、歩みを止めたくない。
自分ができることをできるぶんだけやって、だれかの力になりたい。
だれかを楽にするには、自分も楽でなければならない。
等身大の私で、手のひらサイズの仕事をしよう。
背伸びするのはそのあとでいいから、まずはのびやかにはたらいてみよう。
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