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あなたの名前を書けない

鬱、という字が書けます。

日頃SNSでたくさん流れてくるから、とかしょっちゅう気持ちが沈んでその字を書いているから、とかではなくて、中学1年生の時の漢字ドリルに載っていたから覚えています。

中学1年生の時の国語の先生のことは好きでした。私の文章をたくさん褒めてくれた人だから。

女子生徒にだけ甘いやら、話している時に身体を触ってくるやら良くない噂も少なからずあって(後者に関しては実体験をもって事実だと言える)尊敬とまでは言えないけれど、普通に好きな先生の1人でした。

「『鬱』なんて難しい字はテストに出さないよ、採点が大変だから」

こんな難しい字こそテストに出るんじゃないかと必死になって「鬱」を書き写していた私たちに、先生は言いました。
たしか、中学に入学して一番最初のテストの時。

本当にその字はテストに出てこなくて、それ以降もどこかで書いた記憶なんてほとんどないのに、なぜか今も私は「鬱」を書くことができます。

高校時代と大学時代の友だちのフルネームが書けません。音では覚えているのに、本名を正確に書ける友だちってほとんどいない。

りさの「さ」は沙と紗のどっちだっけ。
はやとってどんな漢字を当ててるんだっけ。

旅行にも行ったような関係性の子の漢字が思い出せなくて、少し背筋が凍りました。

不思議なことに、もう何年も連絡なんてとっていない中学の頃の友人の名前は今でもちゃんと思い出すことができます。

どうやら親密さによるものではないみたいだなというところまで考えて、これってLINEのせい
なんじゃないかと気づきました。

私がLINEを始めたのは、高校に入学する直前のことでした。どういう考えなのか、高校受験の真っ只中に初めてスマホを買い与えられて、受験がひと段落した3月に当時仲が良かった子数人とLINEを交換しました。

だから中学時代の私にとって、相手の名前は名簿や後ろの掲示物に書かれているフルネームが全てでした。

LINEに表示される相手のアカウント名は苗字か名前のどちらかだけだったり、ひらがなのフルネームだったり。
相手の氏名に触れる機会が悉く減ったんだなと思います。きっとそれが影響してる。

だってその証拠に、アカウント名を漢字のフルネームにしてくれている子の名前はちゃんと覚えているもの。

会社だとメールやチャットは必ずフルネームで表示されるから、やはりそこでの繋がっている人の名前はちゃんと思い出すことができるし。

大学時代、学部は違かったけど月に1回くらいのペースで会うとても仲がいい子がいました。
その子はLINEのアカウント名を本名をもじったあだ名にしていて、だから私は彼女の名前の漢字がこれであっているのか確信を持てません。

鬱は書けるのに、学部の友人の名前も、サークルの後輩の名前もどんな漢字だったかをほとんど覚えていません。書けません。

中学1年生の時の国語の先生に感謝している話をしましょう。

高校3年生の現代文の授業で、森鴎外の「舞姫」を扱いました。
それが試験範囲に入る期末テストの時に、仲が良かった同じクラスの友だちが必死に「舞姫」の中に出てくる難しい漢字を覚えようとしていました。

熾熱燈。讒誣。癲狂院。

「先生に聞いたら、出すかもねって言われたから」

彼女は必死に、本文にある難しい漢字をノートに書き写していました。筆圧が濃く、少し右上りな彼女の字は、画数が多い漢字には向いていないようで、細かいところは線同士がくっついて、潰れているようにも見えました。

私が「出ないと思うよ」といっても、彼女はシャーペンを動かす手を止めなかった。

私はそれらの読みだけを確認し、あとは一切「舞姫」の漢字には触れず、余った自習時間をワークを解いたり本文を読み込んだりする時間に充てました。

(中学校の先生からの影響を大いに受けた)私の勘は見事命中し、テストには読み問題は出たものの書きとり問題は一つも出ませんでした。

平均点は低かったけれど、私の点数は前回のテストとさほど変わらなくて、ワークを何周も解いたかいがあったとほっとしたことを覚えています。

ありがとうございます、と思っています。
出題者の気持ちになって考えるなんて、「鬱」の話がなかったら視野の狭い私はきっと思いつかなかっただろうから。
「舞姫」の漢字を練習していた、私よりも頭が良くさらにとても努力家だった友人は、クラスの最高得点を取っていったけれど。

そういえば、中学の国語の先生はとても珍しい名前を持っていました。

単語自体は誰もが毎日のように目にするものだけれど、名前に使われることはほとんどないであろう漢字。

いつかの授業で話してくれた、その名前の由来を今も覚えています。まるで一つの短編小説のように、美しく温かなお話でした。生への希望と我が子への愛情が詰まっていた。忘れません。

私はもう会うこともないであろうその先生の名前を、これからも先もずっと書くことができるんだろうなと思います。

漢字好きなんで、はがねさんの漢字に対する視点を知りたいです。ゆるっと漢字の話。 / 群鳥安民さん

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