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Q好き新劇世代のシン・エヴァンゲリオン感想

【ネタバレ含みます!ご注意ください】


 シン・エヴァンゲリオンが公開されてから早数日、私は初回で見に行ったのですが、すっかり心がやられてしまい、2回目以降の映画を見ることもできず、感想を書くこともできずにいました。

 何をしていたかと言うと、 Twitter で皆さんのふせったーやブログを覗いて、それぞれの場面への理解を深めていったわけです。

 しかし改めてと言いますか、ファンの方々と比べると私がいかに若輩の徒であるか恥ずかしくなります。
20代の私は、新世紀エヴァンゲリオン放送時や、旧劇場版が公開されていた時はまだ赤ちゃんで、新劇場版においても、初めて触れたのはインターネット環境が整った高校生になってからでした。

 新劇場版をテレビ放映で初めて見て興味を持ち、そこから tv版や旧劇場版を見るに至りました。
 シリーズの中では、私は旧劇場版が一番好きです。自分の中では勝手に、奇跡の産物だと思っているし、これを超えるアニメが生まれるのかと疑わしく思っているほどです。
 しかし、それはあくまで新劇場版という続きがあると知っているからこそ見方でもあります。
 この映画で全てのエヴァンゲリオンが終わってしまうと覚悟して視聴することはどうしてもできません。数あるエヴァンゲリオンの終わり方の可能性の一つとして、旧劇場版が最も優れていると感じているのです。
 いわば少し無責任な感想でもあります。
 そのため、シンエヴァンゲリオンを見た後も、極めて恐縮しながら、人生をエヴァと共に歩んできた歴戦のファンの方々の感想を覗いていたわけでありますが、そうしてみるとエヴァンゲリオンに対する感想はとても多様であることにも気づかされます。
 それなら、未熟ならば未熟なりの見方があってもいいじゃないかと思い、少しだけ自信を持って感想を書きます。
 あまり高級なことは書けませんが、鑑賞1回目の素直な感想としての感想を書きます。


 さて、私はエヴァQが新劇場版の中で一番好きです。
 これは決して背伸びをしているわけでも、奇をてらっているわけでもなく純粋な気持ちとして好きです。

 そもそも僕はエヴァンゲリオン何が好きかと言うと、破壊の描写が好きです。

物が壊れる瞬間、人間関係が壊れる瞬間、人間が壊れる瞬間。

 旧劇場版が好きなのもさもありなんといったところでしょうか。

 けれど、 エヴァQは、そういった破壊が多いから好きだというわけではありません。僕はあの映画が旧劇場版とは違い、そこで終わりにしていないところが好きです。
 シンエヴァンゲリオンというゆとりを持たせつつ、何もかもぶっ壊して、傷つけてしまっているところに、私はエヴァQという映画に大きな安心材料を持って見ています。
 前作のすべてをかなぐり捨てて、あそこまで荒廃した世界で、破壊の限りを尽くし、それでもなお1行の余白を残しているエヴァQが好きなのです。

 もしもエヴァQが、新劇場版の最終作だったら、僕は旧劇場版の劣化版として受け取ったかもしれません。だけど「希望は残っているよ」という言葉とともに歩き出すパイロット達の見送って終わる、この微かな望みがたまらなく愛おしい。
 シリーズ全体を通せば、旧劇場版が一番かもしれないけど、エヴァQは昔のエヴァが終盤に辿った行き詰まりの世界から、まだ再生しようとしている。
 ああ、シンエヴァは、庵野監督は、20年前からずっと傷ついて傷ついて、それでも一歩踏み出した答えを描こうとしているんだなあと確かに感じたものでした。
 だから私は、最初からエヴァQ鑑賞時に、放り出されたような気持ちにはならなかったのです。
 新劇場版があると知っている私が、旧劇場版を観ても感動と衝撃を受けこそすれ、極度の絶望に陥らなかったように。
 そう捉えると、エヴァQのつけた引っ掻き傷は、とても計算されていて気持ちがいいものだと思うんですよ。


 さて、語るときりがないシンエヴァンゲリオンですが、私の解釈は、皆さんとそう違ったものではありません。


シンジの心の動き

まだ居場所に気づいていないアスカ

会話から読み取れる感情や相手の想い

ようやく明らかになったマリの役割(モヨコ…!)

旧劇場版では限りなくゼロに近づいていたシンジの反応が限りなく無限のシンクロ率としての対比

マイナス宇宙(ウルトラマンのオマージュとも聞くけどあれレリエルの虚数空間では?)

DSSチョーカーやカセットテープ の意味

 作中で大きく予想を裏切られたのは、第3村が壊されることなく最後まで残ったことです。
 僕はてっきり、映画の前半部で描かれた村での生活の様子は、全て壊すための伏線だと身構えて鑑賞していました。
 村での生活が、止め絵の連続で表現され始めた時に、あっ今幸せ描写の絶頂だ…滅びが始まってしまうと覚悟をしました。
 しかし、結局村は壊されないのです。アヤナミレイが消えてしまうという悲しい出来事は起きても、村自体は残ります。
 アナザーインパクトによってインフィニティの大群が押し寄せた際も、村はそれを耐えしのぎます。
 どうせ最後にはみんな再生して元に戻るのに。

 私はそれが自分で意外なほど嬉しい。
 庵野監督の、ある種執念的な破壊欲が市井の人々に向けられず、守るための戦いに向けられているということがとても嬉しいです。

 壊れなかったあの第3村からは、もう少し踏み込んで読み取りたくもなります。
 あの村に住む人々が無事だったということは、イマジナリーの世界に残された楔だと思うんですよね。
 まだ空想の世界に戻るべき場所を、庵野秀明という男は残していると思えます。
 映画のラストでは、空想の世界が現実の世界に書き換えられた世界5分前仮説のようにも読み取れますが、私としては、空想の世界と現実の世界が両方保存され、ただリンクし始めたように思えるのです。
 旧劇場版でも実写映像が使われ、アスカ・ミサト・レイの3人が街中に佇む様子が映し出されましたが、シンジ・カヲルくんはおらず、もちろんマリもいませんでした。
 シンジとカヲルくんが現実世界にいなかったのは生命の書に名を連ねていたからかもしれませんね。(生命の書が何かまだよくわかっていませんが)
 しかしゴルゴダオブジェクトで世界を書き換え、イマジナリーの世界とリアリティの世界同時に存在することができたシンジ君が新たな一歩を踏み出すような気がします。

 なんだかうまく言葉にできませんが、どうしても某氏のブログのような、庵野監督がただアニメの世界を否定しただけの終わり方だとは思えないのです。

 きっとシンジ君は空想の世界にも現実の世界にも存在しリンクしていて、シンジ君が駅から飛び出すと同時に現実のシンジ君も駅から飛び出すことができたのだと思います。

 パンフレットで前田監督のインタビューを読むと、鶴巻監督が、よりエンタメ的な映画になるようなシナリオを提案していたということが書かれてありました。
 そのルートもちょっと知りたい!けど、あくまでもエヴァンゲリオンというコンテンツの中心にある庵野監督の絶叫、思いの丈をこの映画を通して感じることができて本当に良かった。
 この熱量こそがエヴァンゲリオンだと思うから、見たものや感じたもの全てが、庵野監督を理解することに繋がっていく感覚を味わうことができて本当に良かった。

 いやはやしかし、これがエヴァンゲリオンの終わりを体験することなのですね。
 人生で初めてエヴァンゲリオンの終わりを感じた新劇場版世代の私はまるで半身をもがれたかのようです。
 だけど私がQが好きだという気持ちが否定されなくてとてもうれしい。
 これでもかというほど丁寧に氷解させてくれて本当にありがたい。

 8年前のネットの意見にうろたえる私に「君の感性は間違ってないよ」と伝えてあげたいものです。

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