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裸足で過ごす路上のクリスマス

 季節はめまぐるしく移り変わった。肌寒くなり、人肌が恋しい時期に瀬村みきはいない。僕は人妻であるみきを抱くことはできなかった。いや、それは言い訳だ。なぜなら僕は彼女が独身であったとしても、生身の女性を前にして怖じ気付いただろうから。僕は何を恐れたのか。あの日以来、僕はあの日みきと再会したときと同じ場所で寝泊まりしていた。やがて12月になり、朝と晩はかなり冷え込み、路上で裸足でいるのが辛い時期になった。駅前を行き交う女性たちはコートにマフラー、黒やグレーのタイツにパンプスやブーツ、厚手のスニーカーを履いて闊歩していた。それなのに、僕だけがあの日と変わらずランニングシャツに空手のズボンを履き、足元は裸足だった。爪の中まで埃と垢で黒い。僕だけが季節に置いてかれて、取り残されていた。

 瀬村みきはどうしているだろう…そればかり、彼女のことばかり考えてしまう。地べたに横たわりながら、僕はうっすら目を開き、涙を流した。あのとき、どうするべきだったのか。みきが大切な身体を僕に預けようとしたとき、僕は全身全霊でそれを受け止めるべきだったのだ。もう二度と、女性の肌のぬくもりにありつくことはできないだろう。童貞のまま、誰にも愛されず、誰も愛さず、この冷たい路上で一生を終えるのだろう。

 気がつくと、あたりはうっすら雪が積もっていた。空から花びらのような雪が舞い、僕の黒ずんだ裸足の親指に落ちた。そういえばその親指は、雑踏の中で黒タイツを履いた女子高生のローファーに踏まれたのだった。ただでさえ裸足は霜焼けとあかぎれでぼろぼろだというのに、踏まれた足の親指の爪は割れ、滲んだ血が垢と埃にまみれ、どす黒い瘡蓋ができている。ずっと痛みが引かないから、骨にひびが入ったかもしれない。黒タイツにローファーを履いた冬支度の女子高生は可愛いが、裸足で路上を生きる自分のような者にとって、ローファーは凶器だ。この近辺には、ミッション系の名門私立で中高一貫の女子校がある。裕福な家庭の女子が通う学校で、瀬村みきも卒業生だ。僕の裸足をローファーで踏んだ女子高生は、そこの生徒に違いない。裸足を踏んだ本人は気付いて、一瞬立ち止まり、僕の顔と足元を見て、あからさまに嫌悪感を表情で示していた。"なんで裸足なの。きもいんだけど。裸足なのが悪いんでしょ。踏まれたくなかったら靴履けよ。あ、そっかあ、貧乏で靴買う余裕もないんだあ。かわいそー"とでも言いたげに。結局、彼女はまったく謝る素振りを見せず、足早に去っていった。

 僕は傷つき、寒さでかじかんだ足指を温めようと、はあっと息を吐きかけ、両足の裏を擦り合わせた。指の股に髪の毛やガムなどの汚れが詰まっていることに気付き、ぼりぼりと皮膚ごと削って掻き出す。そのうちに眠くなってきて昼寝をした。空腹にもかかわらず、眠れるのたがらありがたい。遠くでジングルベルのX'mas songが聴こえる。小学生の頃、母にサンタさんは家になぜ来ないのかと聞いたことがある。母は悲しそうな顔をした。だが、今ならわかる。僕の家には、靴下がなかったから。サンタさんはプレゼントを靴下に入れるが、僕も母も靴下を履かないから、1足の靴下も持っていなかった。母は、保険の営業で外回りをしていたが、ストッキングを履かず、いつも素足に1足しかないパンプスを履いていた。帰ってくるとパンプスを脱ぎ捨て、蒸れた素足の爪先と足裏を畳に擦り付けた。素足は靴擦れして、絆創膏だらけだった。そして素足は納豆のようなしつこさと、酢のような酸っぱさの混ざった臭いを醸し出していた。当時、母はまだ二十代で、美人と言われていた。身体は細く、痩せていた。食べるのを我慢していたのだと思う。家では納豆とおからしか食べるのを見たことがなかったから。

 街はクリスマスの装いだった。今夜はホワイトクリスマス。僕の裸足は寒さで真っ赤になった。路上で裸足だと、身体の芯まで冷えてくる。こんなときこそ、身体を動かさなくては。僕は気合いを入れ、空手の演舞を始めた。うっすら積もった雪を裸足で踏みしめる。足裏の熱で雪はすぐ融けたため、摺り足の動作で滑って転んだ。ランニングシャツからむきだしの素肌に雪の結晶が突き刺さり、寒さと痛さで心が折れそうになる。その様子を見ていたカップルがくすくす笑っている。僕は恥ずかしさで一杯になったが、空手の演舞を続けた。気合いを入れ、ハッ、ハッと白い息を吐く。カップルの女性の方が僕を意地悪そうに横目で見ながら、男性に耳打ちをする。女性はヒールの高いブーツを履いていた。タイツもブーツと同じで黒色で、厚手のデニールを履いていた。二人は手を繋いでいた。二人とも目を細めて僕を見て、笑いを堪えている様子だった。僕はそんな二人を目掛け、ハッ!っと気合いの発声を飛ばし、上段蹴りで空を切ると、そのまま足裏を彼女の目の前で寸止めした。これ以上笑ったら、この汚い裸足で蹴るぞ、という警告のつもりだった。僕は彼氏の殺気を感じたが、女性が「行こう」と手を引いたので、僕は足裏を彼女の眼前から地べたに下ろした。

 空手の演舞を続けていると、汗が吹き出し、身体がぐんと熱くなった。裸足の足裏も、汗と融けた雪でぐちょぐちょに濡れていた。そんな僕を興味深そうにじっと見つめながら、母親に「見ちゃだめ」と言われ手を引かれていく小さな女の子がいた。女の子は片手にプレゼントが入っているであろうクリスマスの深い緑と赤いリボンの付いた袋を持っていた。また、女の子は可愛らしい白いブーツを履いていた。母親も白いブーツを履いていたから、母と娘でおそろいのようだ。僕は裸足の足指が痒くなってきた。寒さでかじかんだ足指が、空手の演舞による体温の上昇と摺り足の摩擦で熱くなったために、血が逆流したのだろう。可愛らしくお洒落な白いブーツを履いてきちんと防寒した女の子の足元と、痒くて赤くなった裸足。あまりに対照的だ。もし、女の子の小さなブーツで今の裸足を踏まれたら、僕は痛みで飛び上がってしまうに違いない。

 そろそろ空腹も限界に近い。お金か食べ物を恵んでもらわなければならない。僕は演舞を止め、雪の上に正座し、通行人に足裏を晒した。このクリスマスの夜に足裏を踏んでくれたのは、顔も服装もよく似た二人の女性だった。母と娘だけでクリスマスを祝うため、これからホテルのレストランでディナーをしに行く途中だという。しかし、路上で物乞をする僕を見て、クリスマスの意味を考えたという。私たちだけが幸せな時間を過ごし、美味しい料理を食べて良いものかと疑問に思ったそうだ。大学生くらいの娘は、お洒落な革の財布から千円札を二枚取り出し、僕に与えた。自分と母親の分だということである。それで立ち去ろうとしたので、僕は「足裏を踏んでいってください」と言った。

「結構です」

「どうしてですか」

「人の足を踏むなんて、そんなことできません。まして、靴を履かない裸足を。神様は何と思われるでしょう」

「お願いです。お金をいただく以上、私も貴女方に奉仕しなければなりません。どうか踏んでください」

 母親と娘は困ったように二人で顔を見合せ、「では、少しだけ」と言い、母親がブーツの先で足裏を柔く踏んだ。次に、娘がヒールの高いパンプスの先で足指の裏を軽く擦った。

「これでいいですか」

「二千円という大金をいただいたんです。もっと強く踏んでいただかないことには…」

 母親は両足で僕の足裏に乗り、体重をかけた。ふくよかな体型で、脚はむっちりとしてハムのようだ。そんな彼女に履かれたブーツの靴底は、雪や凍結した路面でも対応できる仕様らしく、滑り止めがきつかった。細かい溝と鋭い突起が足裏を痛めつける。母親は足踏みを始め、これでもかというくらい体重をかけ、滑り止めの靴跡をくっきりむきだしの足裏に残して娘にバトンタッチした。娘はパンプスのヒールで足裏の小指から親指まで、葡萄を一粒一粒丁寧に潰すように踏みつけた。

「あの、もういいですか?わたしたち、レストランを予約しているもので、そろそろ行きたいんですが」

 大学生くらいの娘は、母親と顔を見合わせながら困ったように言った。

「そうでしたね。長いこと引き止めてしまい、申し訳ありませんでした。こんな汚い足裏を踏んでいただき、ありがとうございました」

 母親と娘はまた顔を見合わせ、あきれたように首を傾げ、去っていった。今夜はホワイトクリスマス。雪がちらつくイルミネーションの明かりが恋人や家族など大切な人同士で歩く人々を照らす。僕もその明るみの中に、人の輪の中に入りたいと思った。いっそのこと、彼、彼女らの後ろをつけて、温かな食事や祝福、愛の営みに御一緒したいと思った。たが、それは許されないだろう。なぜなら僕は、物心ついた頃からずっと裸足で生活しており、足の爪の中は垢と埃が詰まって黒ずんでいるし、足裏は女性たちの靴に踏まれてぼろぼろだからだ。しかも雪の積もった路上に裸足で立っているから、足指は霜焼けとあかぎれで茹で蛸のように腫れている。そしてもちろん風呂には入っていないし、一着しかないランニングシャツと空手着のズボンはもうずっと洗わずに身に付けている。家もなければ、愛する人も、愛してくれる人もいない。せめて瀬村みきの素肌に触れた彼女の家での出来事だけは、僕の人生で最初で最後の情事であり、今日のように冷え込み、裸足で凍える夜には、僕の心を温める記憶であり続けるだろう。

****

 ウェイターがグラスにワインを注ぎ、娘は会釈してから、彼が他のテーブルに行ったのを確かめると、母親に向かって言った。

「ねえ、お母さん。わたしたち、あの裸足の男の人にいけないことしたかな?」

「その前に乾杯しましょう。あなたの誕生日とクリスマスを祝して。乾杯」

 二人はワインの入ったグラスを打ち鳴らした。母親はグラスの中身を半分くらい飲み干し、ナフキンで口元を拭き取りながら、娘に尋ねる。

「お金をあげたこと?それとも裸足を靴で踏んだこと?」

「そのどちらも。彼のためになったのかなって。あの人、たぶんこれからも、あんなふうにすることでしかお金を稼げないと思う。結局、路上生活から抜け出せない」

「なんて優しい子!彼のことを思い、心を痛めているのね」

「うん」

「それなら聞くわ。もし、あの裸足の彼が、あなたに愛の告白をしたら、それを受け入れることはできる?」

「そんなの無理よ。できっこないわ」

「そうでしょう。あなたには、ふさわしい人がいる。そしてあなたは、あの裸足の彼とは、育った環境も、見ている世界もまったく違うわ。あなたは生まれたときに大勢の人たちから祝福され、お父さんとお母さんの愛をたっぷり受けて育ち、衣食住足らないことはなく、恵まれた環境で今は大学で好きなことを勉強している。将来は明るいわ。あなたの人生の後にも先にも、あの裸足の彼はいないのよ」

 娘の顔がぱっと明るくなった。彼女はもう裸足の男のことは忘れたように、クリスマスの特別なコース料理が振る舞われる、母との晩餐を心ゆくまで楽しんだ。


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