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瀬村みき、裸足の若者ホームレスと会う

 瀬村みきは、30歳の主婦だ。夫がフランスに単身赴任していて、今は新型コロナの感染禍、もう一年以上も会えていない。子どもはいない。家は新築のときから変わらずきれいなままだ。この真新しい戸建の家は、女性が一人で住むには広すぎる。夫が毎月、生活費をたくさん送ってくれるので、お金には不自由せず、好きなものは何でも買える。服、靴、バッグ、化粧品、高級グルメ。贅沢な悩みであるが、みきはそういう生活に飽きていた。日々、幸せを感じなくなっている。ふと、死んでもいいかな、と思えるくらい生きることへの執着を失っていた。

 ある日、テレビを見ていたら、新型コロナで仕事と住まいを失った若者がホームレスになり、路上で物乞いをしている様子が映し出されていた。その男は、背が低く160センチくらいだろうか。黄ばんだ肌着のランニングシャツに、空手の道着のズボンを履いて、くるぶしから下は「裸足」だった。男のいる場所は、みきの住んでいる閑静な住宅街から車で5分ほど行ったところにある人通りの多いオフィス街の駅前で、通行人に向かって特技である空手の演舞を披露し、投げ銭を期待しているという。しかし、パンプスを履いたOL、革靴を履いたサラリーマン、ベビーカーを押して真っ白い底の厚いスニーカーを履いた若い母親、制服を着てローファーを履いた学生カップル、メイド風のコスプレをした純白のニーハイックスにエナメルシューズを履いた若い女の子。そうした誰もが足早に通りすぎ、裸足の男の前に足を止める者はほとんどいない。その日、男の作った粗末な空き箱に投げ入れられたお金は83円だった。テロップに金額が表示されると、スタジオのコメンテーターとして出演していた女優やアイドルは皆一様に白い歯を見せて笑った。

「これでは飲み物も買えませんね。朝に公園の水道で水を飲んでから、ずっと飲まず食わずなので、しんどいですね」

「これからどうするんですか?」

 他人事のようなインタビュアーの質問に

「ここで寝ますよ。人通りが多い場所のほうが安心なんですよ。そうでないと、殴られたり蹴られたり、おしっこや唾をかけられますから。この前なんて寝ているとき、女子中学生に、足裏に煙草の火を押し当てられ火傷しました」

 男は神妙な面持ちで語りながら、真っ黒な裸足の足裏をカメラに向けた。どアップで映し出された足裏は、足の指から踵にかけて、土踏まず以外は信じられないくらい黒く汚れ、所々に小石やガラスの破片が食い込んでいた。ちょうど親指の裏と指の付け根に2か所火傷の痕があった。また、分厚い親指の裏は皮にも、焦げた跡があった。指の付け根の方は皮膚が薄いせいか、赤紫色に爛れ、水脹れができていた。裸足の足裏に煙草の火を押し付けるなんて、今どきの女子中学生はやることがえげつない。この貧しい男にとって、この「汚い裸足」が生きるための商売道具なのだ。足を怪我したら空手の演舞を見せてお金を稼げなくなる。

 映像の終盤では、男が路上で「エイッ!」と気合いの入った発声をしながら正拳突きや回し蹴りを披露するたび、真っ黒な裸足の足裏がちらちら見えた。皆が靴を履いて行き交い、唾を吐いたり、食べ物を落としたりする汚い路上で裸足なのだから、皮膚は埃や排気ガス、油などあらゆる汚れが染み付いて取れないのだろう。

 瀬村みきは、シルクの靴下にルームシューズを履いて、エアコンの効いた快適なリビングで缶ビールを飲みながら、80インチ超えの液晶越しに、路上で「エイッ!ヤー!」と叫びながら、薄汚いシャツが汗で肌に張りつき、素手素足で一生懸命突きや蹴りを繰り出す貧しい裸足の男を見て、身体の奥底から熱いものが込み上げてくるのを感じ、ゾワゾワした。

 夕方、みきはショッピングモールでの買い物の帰りに駅前のパーキングに愛車を停め、テレビで見た裸足の男のいた場所に寄ってみた。男は通行人に背を向け、路上で正座していた。どす黒い汚れのこびりついた足裏は、煙草の吸い殻やお菓子の包装紙、スーパーの値下げシール、鳥の糞がまばらに付着し、その隙間を埋めるように細かい小石やガラスの破片が食い込んでいた。

 瀬村みきの目は、裸足の足裏に釘付けになった。頭が混乱した。なぜこんな人の目につく路上でわざわざ正座し、汚い裸足の足裏を晒しているのだろう…しかし、その疑問はすぐに氷解した。

 二人のOLがやってきて、男に小銭を投げると、彼のむきだしの足裏をハイヒールで代わる代わる踏みつけたのだ。

「あー、今日も疲れたね~まったくあのお局上司ったらむかつく!!わたしたちには服装が華美だの言うくせに、お気に入りの男がいる取引先の前では色気出しやがやって。しかたないからこいつでストレス解消していこー♥️」

 ヒールでぐりぐりと男の足裏を踏みにじった。男は背中をよじり、悶えながら必死に痛みに耐えていた。

「そうね~とりあえず10円でいいよね?わたし基本キャッシュレスだから小銭あんまり持ってないんだよね。うわっ、こいつの足、まじできったなくて引くんだけど」

 もう一人のOLが足指の付け根をヒールで踏みつけると男はあまりの激痛に叫び、咄嗟にその鍛えられていない柔らかい部位を守ろうと手をかざした。見るとそこは女子中学生に煙草の火を押し当てられ火傷した箇所だった。

「おい、何防いでんだよ。わたしたちがお前にお金恵んでやって、きったない足の裏を踏んでやってるの忘れたの?おなか空いているんでしょ?我慢しないとさあ、パン一個、おにぎり一個買うお金も稼げないよぉ」

「ほら、手をどけろよ。そうしないと、手の上からヒールで踏みつけ穴あけちゃうぞぉ~」

 男は命令に従い、手のひらをどかし、再び無防備な足裏を彼女たちに晒した。

「そうそう、わかればいいのよ、裸足奴隷くん🖤じゃあ、バシバシ行くよ!」

 そう言ったOLは背が高く175センチはありそうだった。むちむちに引き締まった脚は薄手のストッキングに包まれ肉感と重量が伝わってくるようだ。一方、正座した足裏を踏まれる男は小柄で空手着を着ていているのに、いかにも貧弱に見える。OLの履いたパンプスのサイズも女性にしては大きい方で、男のむきだしの足裏に重ねると彼の裸足は隠れてしまう。路上で裸足で過ごし、空手をやっている足裏はかなり皮膚が分厚く鍛えられていたが、さすがに女性二人による容赦のないヒール責めにあい、ヒールの跡がビッシリ付き、皮がめくれたりして痛々しい。元々足裏に食い込んでいた小石やガラスの破片の上からヒールで踏まれるものだから、さらに奥に食い込んで皮膚を突き破り肉に刺さり、出血していた。背の高いOLは嘲り笑いながら、

「みかはね、小中高とバレーボールやってて、大学ではテニス、社会人になってからはバドミントンやっているんだあ。だから脚力には自信があるよ。見て、この太もも、すごいでしょう?みかが本気で踏んだら、お前のきったない裸足の足裏なんか、ぐちゃぐちゃになっちゃうよ~」

「そうそう、わたしたちフードクラッシュが趣味なんだ。お前に食べ物を恵んであげるよ。裸足奴隷らしく食べなさい♥️」

 新入社員だろうか、まだあどけなさの残るOLは、コンビニの袋から海苔巻きを取り出すと男の足裏に置いた。そしてヒールで無残に踏み潰し、裸足の足裏を飛び散った海苔と酢飯の米粒と具材でぐちゃぐちゃにした。

「さあどうぞ、召し上がれ♥️」

 男はくるりと向き直ってOLに土下座をしてから、片足を持ち上げ足裏を口に近づけた。まさか、と思ったが、男は足裏に付着した酢飯の米粒と具と海苔をほおばった。一粒一粒唇で吸い、舌で舐めた。途中、小石やガラスの破片も一緒に口に入ったようで、思わず吐き出したりした。それでも無我夢中で食べた。必死に生きようとしていた。みきはステイホーム中に生きる意思を失いかけていたが、「裸足奴隷」とOLたちに罵られるこの裸足の男が放つ生への執念に完全に圧倒されていた。そこまでして…とみきは小さな胸をかきむしり、つぶやいた。

 OLたちがいなくなり、一人うなだれている男のそばに、みきは寄り添い、話しかけた。

「あの、大丈夫ですか?」

 男からは汗が発酵した納豆と酢を混ぜたような異臭がした。毎日朝から晩まで空手をやりながら、ずっと風呂に入っていないのだろう。顔は垢じみて皮膚の皺にも汚れが染み付いていた。まるで銅像のようだった。それでも男は自分と同い年くらいということはわかった。しかし、どこか見覚えがあるような気がする…ずっと昔、会ったことがあるような。そんな遠い記憶は手を伸ばせば輪郭をつかめそうでいて、いざ触れようとすると消えてしまう。思い出せない。

「とりあえず水、飲みますか?」

 みきは鞄から飲みかけのペットボトルの紅茶を取り出し、注ぎ口に付着した口紅をハンカチで拭き取ってから男に飲ませた。男は喉仏を膨らませ上下させならがらゴクゴク飲んだ。ものすごく喉が渇いていたようで、数秒で飲み干してしまった。

「ありがとうございました。こんなに親切にされたのは久しぶりです。助かりました」

 そう礼を述べて男は土下座した。

「やめてください。頭をあげてください」

 みきは人目を気にしながら男の肩をさすった。男は虚ろな目をみきに投げ、

「どうしてあなたのようなお洒落で清潔な女性が、僕みたいな路上生活者に優しくしてくれるんですか?」

「テレビであなたを見て、すごいなあって思いましたよ。街の中で、この固いアスファルトの上を裸足で歩いて、しかも空手だけで生計を立てているんですから。たくましいです、かっこいいです」

「ああ、テレビの取材、そんなことがありましたね。どうせ視聴率のために面白おかしく放送していたんでしょう。それに、空手の演舞だけでは食べていけないですよ。あなたもさっき見ていたと思いますが、通行人に正座した足裏を晒してストレス解消に踏んでもらう、これで何とか食いつないでいます。ただ、さっきのOLさんたちのように、女性のヒールで裸足を散々踏まれると、どうしても傷が深くて化膿してしまうので、せめて瘡蓋ができるまでは次のお客を取るわけにはいきません。だから、これから数日、どうやって食いつなぐかが問題です」

「それは大変ですね…その足、とても痛そうです。お金のために、裸足を靴で踏まれて痛みに耐えなきゃいけないなんて、可哀想すぎます。何かちゃんとした仕事を見つけて、働いて、アパートを見つけようとしないんですか?」

「無理ですね。中卒で上京して工場で働きましたが社会に適合できないんで、すぐ首になりました。それから10年くらい路上生活をして、ボランティアのあっせんで住み込みの新聞配達をやりましたが、これもどうしても地図が読めなくて遅れたり間違ったりしているうちに、コロナでお払い箱になりました。路上では最初は靴磨きをしていましたが、通行人の女子高生のグループに道具を蹴り飛ばされたり、踏みつけられたりして壊されたので、自分の身体一つで稼ぐことを決意しました」

「そうなんですね。ところで、どうして裸足なんですか?靴は、持っていないのですか?それとも、履かないと決めているんでしょうか…?すみません、ずっと気になっていまして…」

つづく

 



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