見出し画像

【小説】僕が切り抜いたぼくと、ぼくを切り抜いた僕。

僕が切り抜いたぼくと、ぼくを切り抜いた僕。
八田員成


あらすじ

主人公・七瀬員也は、子供の頃から憧れていた大物漫才師が司会するテレビ番組にスタジオ出演を果たす。
切り絵アーティストとして。
華やかな舞台に立つことができた七瀬だったが、それは自分自身の努力ではなく「アートという、自分の愛するものが連れてきてくれた場所」だと知る。
そんな七瀬がこの日を迎えるまでには過酷な日々を潜り抜ける以外に道はなかった。
パワハラ、それによる性的機能の停止、見失った自分との再会、創作への情熱、恋愛、不倫、逮捕…
様々な困難は、彼にアートと人間についての問題をまざまざと突き付けるのだった。
読後、絵画教室の生徒が退会していくかもしれない覚悟で臨んだ意欲作。

記憶

 目を閉じると思い出す光景がある。
 古びた県営団地の五階。金属のドアを開いて右手の三畳の部屋で絵を描く、ランニング姿の少年がいる。サラサラの前髪に隠れそうな瞳は、爛々と燃えている。その後中学校生活の三年間を丸坊主頭で過ごしたのち、待望だった髪を再び伸ばし出すと、なぜかチリチリの天然パーマになっていることが発覚するが、それはまだ先の話だ。サラサラの長い髪のせいで少年は、よく女の子に間違えられた。
 少年は自ら滴り落ちる汗にも、部屋に差す太陽の明かりが少しずつ傾いていくことにも、一切気にかけず黙々と絵を描いている。同い年の子供たちが外で遊んでいるだろう時間。彼以外の誰かと誰かが、どこかの公園で仲良くなっていくことなんて全くおかまいなしだ。興味ない。
 彼が向かうちゃぶ台の上には何枚もの、黄色い紙が散乱している。今では見られなくなった、いかにも質の悪い折込チラシだった。スーパーとか個人商店の電器屋の、手書きで書かれたチラシの裏は何も印刷されておらず白紙で(正確には黄色だが)、少年はそこにボールペンで絵を描いている。その描きっぷりは一心不乱に、途切れることを知らない。一人っ子の彼には日中邪魔するものはなく、両親が帰ってくるのはもっと後の時間だと分かっている。
 少年は時を経てこれからもたくさんの絵を描くことになるのだが、それが自分でも何のためなのかは知る由もない。学校から応募するコンクールではほとんど優秀賞だの入選だの、何かしらの栄誉をもらう。環境や人権啓発ポスターなどの、大人が押し付ける、よくわからない教育関連の公募だけでは満足できず、少年誌や大人向けの雑誌などにも絵を送り、掲載される。小学生向けの雑誌での、自動車のおもちゃのデザインコンクールでは、グランプリをもらう。水陸両用カメラという賞品は、小学五年生の彼にとっては無用の長物と言えたが。また、のちに国際的映画監督にまでなるコメディアンのテレビ番組にも絵を送ると、その番組のファンブックにも少年の絵が掲載される。
 幼い頃の記憶。
 ぼくが最初に思い浮かぶ光景だった。その光景とともに、点で散らばった数々の出来事が、同時に呼び起こされた。
 記憶では、絵を描いている自分を別の視点から見ていた。本来なら、黄色い裏紙とそこに線を走らせるボールペン、それがぼくの見ている世界として映像化されるはずだったが。記憶の発掘作業とはそういうもののはずだ。それなのにどういうわけか、まるで映画のワンシーンを見ているかのように、ぼくらしき少年の、わき目もふらず絵に没頭する、華奢な肉体を眺めている。
 誰かに指示されたわけでもない、何かの目的を遂げるためでもない、それは屈託のない飽くなき作業だった。今やっていることがどんな場所へつながるというのか。ぼくや誰かに特別な何かを与えるとでもいうのか。どうあれ、何の思いもそこにはないのだった。
 黄色いチラシとボールペン。
 それがぼくの最初の画材だった。 

プロローグ あの人

 十日ほどで二〇二〇年も終わるというその日、ぼくは東京はお台場にいた。
 ぼくの住む町から新幹線、さらに乗り継いで最寄り駅へ到着するまで三時間を要する場所に降り立った。
 十二月だというのに寒さなど感じない。寒さどころか、いま自分が空腹なのか喉が渇いているのかどうかさえ、よく分かっていなかったし、初めて目にするこの観光名所の景色をしっかり味わう余裕もなかった。そして、約束された時間に対して、早く着き過ぎたのかそれとも良い塩梅なのかもわからぬまま、テレビ局の入り口を探してうろうろと大きな建物の周囲をさまよっていた。毎週欠かさず見ているテレビ番組に、ぼくは出演するためにここへ来た。
 どうやら最初に「ここだ」と信じて入ろうと思っていたエントランスは見当違いのようだった。長い長い階段を上った先にあったのは、観光客向けの土産売り場やゲーム機の設置されたホールだったようで、せっかく労した行程をまた引き返す羽目になった。並行するゆったりとした階段を尻目に、下っていくエスカレーターを息を切らせて駆け下りた。コロナ禍のせいで、この巨大なエスカレーターにはぼく以外誰も見当たらず、この無作法は許しを乞うまでもなく実行できた。上りはわざと階段を使って悠然と上り詰めた。それは気持ちを落ち着かせるための時間稼ぎだったが、そんなふうにしてこの長いスロープをわざわざ階段を使って上る利用者など、普段ほとんどいないに違いない。
 十二月だというのに軽く汗をにじませながら、「このままどこから入るかも分からないまま、時間に間に合わなかったらどうしよう」という不安に襲われた。
 ぼくは、兵庫県の片田舎で長年暮らしてきた。一時期、地元を離れた土地で暮らしたり、それなりに繁華街に能動的に出向いたりして、何となく現代社会に生きる勘のようなものは鋭い方だという自負があった。例えば見知らぬ都会に放り出されても、何となくこっちへ行けば目的地に着くだろうな、というような勘だ。だからたとえばテレビ局のような特異な建物など、どこからどう行けば関係者入口にたどり着くだろうとか、「ここは立ち入っちゃいけない」「ここは入っていい」といった判断を働かせることなど、造作もないと心から信じていた。もう一度言うが、それは兵庫県の片田舎という限られた場所で暮らしてきた、しがない男の信じてきたことに過ぎない。
 そして今、今日、この日。
 ややもすれば涙が出そうなくらい情けない気持ちでいっぱいだった。全く、どこから入って行けばいいか見当も付かない。
 本当にこの建物の中でテレビ番組の収録が行われてるのだろうか。
 ともかくひとつはっきりしたことがある。本当に文字通り「片田舎で培われたいろいろな経験則がもたらす勘」みたいなものは所詮「片田舎で培われた」に過ぎないものだということが立証された。コロナ禍にあり、閑散としているため、人の流れがないせいもあった。
 尋ねる人も見つからず、じりじりと時間が過ぎていく。ただあてどなく足早に行く自分が滑稽であった。
 ここは実は、観光客向けに作られた建物で、芸能人や関係者が出入りするぼくが向かうべき建物は、どこか離れた場所にひっそりと存在しているのではなかろうか。もしそうだとすると、今から調べてそこへ向かうことは約束の時間に大遅刻するレベルなのではないだろうか。焦りと不安はもう少しで発狂しそうなところまで届きつつある。
 結果から言うと、無事たどり着いた「本物のエントランス」はちゃんと、このばかでかい建物にあったのだが、どこかのタイミングでてくてく闇雲に歩きまわることをやめたぼくは、小さな売店のようなスペースを発見し、そこに詰めている人に正式な入口を教えてもらうことができた。きっと普段ならこの売店にもたくさん客が並んでいて、その存在にすぐ気づくことができていたのだろうと思う。とにかく藁をもすがる思いで足早に近づいた。こんな調子で尋ねた気がする。
「あの…すいません…『ワイドNOショー』という番組に出演する七瀬員也という者なんですが、ぼくはどこから入ればいいのでしょうか?」と。
 何度考えても、そういう聞き方しか思いつかなかった。まるで記憶を失った者が「私は誰? ここはどこ?」とでも質問するみたいに馬鹿げた聞き方だった。
 「ワイドNOショー」とは、全国ネットのテレビ番組で、日曜朝に放送される情報バラエティ番組である。そんなメジャーなテレビ番組に出演しようという人間が、テレビ局への入り方ひとつ分からない。大阿呆のような気分だ。
 こんな情けなくて恥ずかしい質問はないと思う。しかし同時に、なんでこんなに入口を分かりにくくする必要があるのか、とも思う。でもそうする必要が、あるよな、と今なら分かる。どう考えても一般の人間が近づきやすく、出入りしやすいような佇まいであってはならない。意図的に仕組まれた構造なのだろう。実際、やっとの思いでたどり着いた関係者用のエントランスは、まず制服に身を包んだ警備員の放つ、無表情なオーラが匂い立つ、華やかさとは無縁の場所だった。恐らくこのエントランス前を、ぼくは一度遠巻きに通り過ぎた気がする。けれどそこから感じる雰囲気は、何となくじっと見てはいけないような気にさせられたし、立っている警備員たちにも声をかけづらいものを感じ、視界から無意識に消して、ありもしない架空のイメージを持った「芸能人が出入りする入口」とやらを求めてさまようことを選んだのだった。
 つまり、ぼくが今から足を踏み入れようとしている場所はそういう場所なのだった。一般人が気軽に入っていけもせず、気軽さを感じさせないエントランスを所有する場所。それこそがぼくの招かれた場所なのだ。そう思うとぼくは更に緊張感で口の中に変な味が広がっていくのを感じた。
 これからあの人に会う。
 その事実で心が充満していたけれど、冷静に言い換えれば全国ネットの有名なテレビ番組に出る、とも言えるし、仕事のひとつとして東京まで来た、とも言える。しかしそれでもやはりぼくにとっては「あの人に会う」ということなのだった。
 この文章が、この先何年後までの人々の目にふれるか全く想像できないが、とにかくこの時代においてぼくのような四十代の男が、関西出身の人気お笑い芸人Mという人物に会う、というのはそれなりに人生における事件だった。ましてやぼくは、お笑い芸人でもなければ芸能人でもない。そう、同業者というか同じ世界にいる人間だって会うことが容易でない人物とこれから対峙する。まともな精神状態でいられるわけがない。
 もう一度言うがぼくはお笑い芸人ではない。そして芸能人でもない。そんなぼくが、これまで遠い場所にしか存在しなかった、とても尊敬してきた人物と会える。あの人は関西に住む人間なら誰もが、テレビやラジオで見てきたヒーローのような人だった。そんな人と会える。
 そういう道筋をたどることになったのはなぜか。
 運が良かったから? いや違う。ぼくが頑張ったから? いやそれも違う。
 ぼくには分かっていた。それは、「ぼくが愛しているもののおかげ」だった。「ぼくが愛しているもの」は、ぼくが行くはずのなかった場所へ連れていき、ぼくが会うはずのなかった人々と出会わせ、ぼくに見るはずのなかった景色を見せてくれるものだった。
 「ぼくの愛しているもの」、それはアートというものだった。
 アート。
 それは、生まれてからずっと当たり前のようにそばにあって、時には救われたり、時には窮地に陥れられたりしながらも、つかず離れず付き合ってきたものだった。
 アートと言う言葉を英単語から生真面目に解釈すると当然「芸術」という日本語が当てはまるのだが、ぼくの言うアートとは、たとえば人によって見えている色が違うように、聞こえてくる旋律が違うように、定義があやふやなくせにそれでいてしっかりと存在するものだ。
 ある人にはそれがピアノを弾くという行為だったり、またはピアノの音を聴くという行為かも知れない。野球だったりサッカーだったり、スポーツの場合もあるだろうし、人を説得する、とか笑わせる・楽しませる、書くこと、ものを売ることなど、いくらでも挙げたうえでそれらは全部あてはまる、と言える。
 家庭を持ち家族を大切にする、といったことも「アートに生きる」と言える。ぼくに見える世界では、表面的な形にさほど意味などない。
 これは個人的に思うことだけれど、それぞれが抱えるアートというものは自分の凄さや技術とか腕前を誰かに見せつけるものとして使ってはいけない。たとえば優秀な格闘家がその技でもって人を傷つけてはいけないのと同じように、勝利を他人に誇示して、力の差を見せつける道具にしてはならないように。誠意を持って接することでアートというものは、人を別の場所へと連れ出してくれる。あなたも、きっとどんな世界へでも行けるはずだ。この日のぼくのように。

ここから先は

191,983字

¥ 1,000

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?