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「てんでんこ」の利己性、そして利他性

一人は怖い。
とりわけ、誰かと一緒にいたいのに一人なときほど、孤独なこともない。
けれど、孤独を決定的なものにしないために、一人を選び取らなくてはならない瞬間がある。


こういう話をしたのは、3.11から11年が経とうとしている今「てんでんこ」について語りたいと思ったからだ。

・・・・・

てんでんこ。
この言葉が分からない方は「津波てんでんこ」と言ったら、ピンとくるかもしれない。
多くの場合「津波が来たら、自分の命を最優先に行動しなさい」というニュアンスで語られる。

1933年の昭和三陸津波のとき、先に避難した父に取り残された子どもがいた。
のちに母がそのことをなじると、父は「なに!てんでんこ(めいめいで行動しなさい)だ」と答えたらしい。

「父に取り残された子ども」である、津波災害史研究家・山下氏の話だ。

こうしたエピソードを目にすると「まあ、そういうこともあるかもしれない」という気持ちと「とはいえ非情だな」という思いが、同時に心に現れる。
当時わずか9歳だった彼は、父に置いていかれたときに何を思ったのか。わたしには分からない。想像できる範疇を超えている。


けれど、山下氏の言葉には続きがある。

彼は自分の著作のなかで「てんでんこは、自分の命を守るためだけのものではない」と言っているのだ。

無論、てんでんこの原則は「自分が生きることを第一に、めいめいが動く」という点にある。
けれどそれは、利己性と利他性を併せ持っている。


自分を助けながら、相手も救うのが「てんでんこ」なんじゃないだろうか。

私がそう思う理由を話すには、11年前のことに触れなくてはならない。

・・・・・

あの日、私は茨城県内の高校に通う一年生だった。
数学の授業を受けているとき、例の地震が起こったのだ。

ガシャン、ドカン、と物が落ちる音。
揺れとともに、しがみついた机ごと振り回される身体。

2011年3月11日、震度6の揺れのなか「このまま死ぬのかもしれない」と思った。

※茨城のなかでも南部、そして内地だったので、津波の心配はなかった。

揺れが少し収まったあたりで、先生に誘導されてグラウンドに出た。
しばらくすると学年主任の先生が「今日はこのまま解散だ」と言う。

自分がいるのは、家からバスで2時間ほどの高校。
母は家。父は都内勤務。
妹たちは、小学校と中学校。
全員がてんでばらばらの場所にいた。

さらに、通信が渋滞していたので、それぞれの無事がすぐには分からなかった。
いくらiモード問い合わせをしても、メールがなかなか受信できない(当時私はガラケーを使っていた)。

そうしている間にも生徒たちが、バスに乗るために列をつくっている。その長さは、一つ先の停留所まで届くほどのものだった。
一方で道路がどんどん混みはじめ、バスどころかバイクすら前に進まない。

やむなく、流れの良い道路を探しながら、歩いて家の方角に向かうことにした。

※今思うと、学校に残るという判断もあったのかもしれない。けれど、学校の校舎も地震で大きく損傷しており、その場にとどまり続けるには、とてもじゃないが怖かったのだ。

増していく不安ともに家路を辿っていたとき、突然後ろで「ドスン」という鈍い音がした。

身体を震わせ、音がしたほうを恐る恐る振り返る。
視線の先にあったのは、大きな鉄の塊だった。

「揺れのせいか、いろんなものが脆くなってんだ!頭上に何もねえところを歩いて!」
ヘルメットをかぶったおっちゃんが叫ぶ。

どう気をつければ良いというのだろう。

近くの歩道上空には、まんべんなく電線が引かれている。
田舎なので、電線の地中埋め込み工事なんてされていない地域だったのだ。

歩みは止めなかったものの、私の心は恐怖に占領されていた。
このまま、近くの建物に入ろうかしら。
そして、母に連絡して、迎えに来てもらったほうが良いかしら。
弱気な自分が、誰かの支えを求めようとしていた。

そのとき、制服のポケットが微かに震える。
鳴ったのは、私の携帯電話。
慌てて画面を開く。

「無事?迎えにいこうか?」
母からのメール。

それを見た瞬間、私の頭に浮かんだのは、ほんの数秒前とは正反対の思いだった。

「こっちに来てほしくない」

「大丈夫、家に帰って妹たちと待ってて」と返す。
メール、早く母の元に届け。
こっちに来るな。家で安全でいてくれ。

30分ほど歩き続け、まだ車の流れが止まっていないルートにたどり着く。
さらに幸いなことに、家の近くを通るバスがやって来た。

普段の倍くらいの時間をかけながら、それでも私は家についた。

動かないエレベーターを尻目に、マンションの階段を駆け上がる。
玄関の扉を勢いよく開けると、そこには母の姿があった。
学校から帰ってきた妹たちもいる。父も無事に避難所へたどり着いたそうだ。

「メールを読んで、おとなしく家にいたよ」と母が言う。
それで良かった。それが良かったのだ。

・・・・・

一人は怖い。
とりわけ、誰かと一緒にいたいのに一人なときほど、孤独なこともない。

それでも私は母に、身を危険に晒してまで、娘を迎えに来てほしくはなかった。
安全な場所で、待っていてほしかった。

車を動かし迎えに来ることは、誰でもできるかもしれない。
けれど、私の帰りを待つことができるのは、私の家族だけなのだ。
だから私は、一人で帰ることを選んだ。

そこにあったのは利己的だけれど、利他的な思い。

「てんでんこ」は、孤独を決定的なものにしないために、一時的に孤独を選ぶということなのだ。


何らかの災害が(起こってほしくないけれど)起こってしまったとき、どうか人を迎えにいこうとせず、じっとこらえてほしい。

迎えられる側は、あなたのいる場所に、どうにかして帰ろうとする。
それを待ち「おかえり」と声を掛けられるのは、あなただけなのだ。


参照:山下文男『津波てんでんこ 近代日本の津波史』新日本出版社

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